起|絹の道(浜街道)を歩く
先週末、市川さんと3度目の八王子Feel℃ Walkを決行した。1回目のFeel℃ Walkは、何も知らない八王子の土地を興味の赴くまま歩いた。そこではたくさんの発見があった。
ー現代の八王子の礎を築いたのは徳川の金奉行で有名な大久保長安であること。
ー八王子同心という警察のような組織が活躍していたこと。
ーなぜか武田信玄の五女・松姫様が信濃から脱出して八王子で生涯を遂げたこと。
ー浅川にはメタセコイアの化石が出ること。
ーその昔、浅川で絹織物の染色が行われていたこと。
ー八王子は絹織物の生産でかつてものすごく栄えていたこと。
ー甲州街道沿いに、何故か群馬銀行の視点があること。
ー八王子の食事処はどこもハズレがないくらい美味しいこと。
まだまだ、たくさん発見があった。その中で、僕は絹織物の八王子に目をつけた。なぜか。それは僕の生まれ育った街、埼玉県熊谷市もかつて生糸産業が盛んだったからだ。幼稚園の頃の記憶は、自宅の周囲がほとんど桑畑だったこと。蚕を飼っている農家がたくさんあった。蚕が桑の葉をムシャムシャ食べている音を聞きながら登校していた記憶すら蘇ってくる。八木橋百貨店を挟んだ国道17号向かいの土地には、片倉工業の生糸工場があった。片倉工業は「諏訪の片倉組」と呼ばれ、生糸工場の近代化でのし上がった企業で、国立の富岡製糸場を引き継いだ会社でもある。そういうわけで、「絹(シルク)」は僕の幼少期からの記憶に深く結びつく、八王子との「共通項」なのである。
2回目の八王子Feel℃ Walkもどちらかというと、気の向くままに歩き、たくさんの発見をする旅だった。しかし、今回は違う。「絹」の捜査である。八王子の絹の痕跡を徹底的に追うのだ。そこでバスに乗り、一路「絹の道」を目指した。
JR八王子駅から京王バスに乗り、途中「絹ケ丘」で降りる。絹を捜査するわけだから、思わず絹がつく地名で降りることにした(ここから結構歩いて、汗だくになったのだけれど)。16号バイパスに突き当たると、そこを逸れて小高い丘を登る。すると八王子の街が一望できた。
登り切った山道はなんと「絹の道」につながっていた。
道了堂という寺跡から鑓水商人の暮らす集落まで、鉄道が敷かれる前、馬や牛に荷を積み、横浜まで続いていた「絹の道」の一部が残っている。雨が降っても柔らかい土に足を持っていかれないように、石が敷かれている。敷かれているというより、ばらまかれている感じだ。湿気を感じながら、時に藪蚊が体にまとわりつく羽音を聞きながら、市川さんと歩きながら、前日にゲストで参加した慶應SFC井庭さんの「トリックスター論」の続きを話していた。
承|歴史上のトリックスターたち
原尻:「市川さん、社会変動の担い手としてトリックスターを考えると、明治維新の勝海舟はまさにトリックスターですよね。幕府側と維新側の両方を行き来しながら、争いをしないように仕向けて行った業績は、まさにトリックスター的です。」
市川:「そうだね。勝は間違いなくトリックスターでしょう。でも、徳川慶喜も実はトリックスターな気がする。キングのふりをしたトリックスターなのかもしれない。」
原尻:「ああ、わかります。海外列強に取り込まれないように、勝と結託して、日本の国力を分散させなかったような気もしますね。」
こう考えると、徳川慶喜はグローバルレイヤーでのトリックスターを演じ、勝海舟は国内レイヤーでのトリックスターを演じ、海外列強に日本国内を直民地化させない努力をしていたのかもしれない。
そんな会話をしていると、あっという間に八王子市立絹の道資料館に到着した。ここは生糸のビジネスで財をなした八木下家の跡地で、立派な石垣がシンボルであることから、鑓水の住民には「石垣大尽」という渾名で呼ばれていたそうだ。絹の道資料館は完全貸切状態で、他人を気にすることなく、話をしながら見ることができた。この資料館の情報編集が素晴らしい。すべて八王子文脈で編集されており、年表などは大久保長安の八王子整備から始まり、橋本義夫が絹の道の碑を建てたところで終わっている。面白かったのは、鑓水商人のビジネス手法だった。
明治政府は富国強兵・殖産興業を進めるために、関東一円を生糸・絹織物生産地帯として改造してきた。その仕掛け人が渋沢栄一である。渋沢は各地に大量生産体制が敷ける製糸場を配置し、生糸の輸送をスムーズに行えるように鉄道網を整備した。高崎線、両毛線、横浜線を整備し、最後にできたのが八高線のようだ。最も有名なのは官営富岡製糸場であるが、実は八王子には諏訪片倉組の製糸工場ができている。このように国家の殖産として、シルクビジネスがモデリングされていた中で、どうも鑓水商人はそのビジネスモデルを無視し、横浜の生糸商人や外国人と「直販ルート」を確立していたようなのだ。八王子から1日で横浜港まで行ける地の利を生かし、しかも鑓水商人は外国人を招き入れる宿までつくっていた。つまり、八王子の生糸ビジネスは、渋沢が描いたビジネス構造に組み込まれることなく、生産から販売までバリューチェーンを構築し、かなりの富を得ていたことになる。鑓水商人の八木下要右衛門、大塚五郎吉、平本平兵衛らは、まさにトリックスター性を発揮したビジネスマンだった。
転|地蔵とは何か
鑓水地域をくまなく歩く。鑓水地域の菩提寺として親しまれている永泉寺や諏訪神社には、鑓水商人の八木下氏、大塚氏の寄進が多く見られる。コミュニティを守ってきた地元の名士としての商人の美しい生き様を垣間見る。そこで面白い看板を発見した。
なんと地蔵さまの本質が解説されていたのだ。
「地蔵」の「地」は「大地」を意味し、「蔵」は「子宮・胎」を意味します。つまり「地蔵」は大地のはたらきを擬人化した存在であり、「お地蔵さま」がこの世の人びとの苦を救うと共に冥界の人びとの苦を救うとされます。
ああ、なんてことだ。「蔵」は「子宮・胎」であると来た。実は面白いことに八王子に来るまでの車中で読んでいたライアル・ワトソンの『生命潮流』(工作舎)に受胎についての文章に感動していたのだった。ライアル・ワトソンによれば、
「受胎(Conception)という言葉を文字通り解釈すると、それは概念(Concept)の導入を意味するにすぎない」
とある。
私たちの身体自体は、1つの「蔵」である。植物が受粉するように、生命が受精するように、蔵の何かと外界からの情報が結合すると、「生命」が立ち上がるように「概念」が立ち上がる。アイデア(概念)とは、脳という蔵にある何かが、外界の何かと結合して、生命のように立ち上がるものなのだ。空海は悟りを開く路筋として曼荼羅を考えたわけだが、彼の思考はユニークで両界曼荼羅を考えた。2つで1つの構造を持った曼荼羅を考えた。1つは「胎蔵界曼荼羅」と呼ばれる。自然界は胎蔵、すなわち子宮のような世界だ。生命が立ち上がるように、発見に満ちた世界だ。この胎蔵界であらゆる経験をし、自分の蔵からアイデアを生み出せ。そして、金剛界曼荼羅を使い、一気に悟りへ向かえ。空海はそう説いた。道端にたたずむお地蔵さまが、大地のはたらきを表現しているように、君の蔵を存分に使い、命が輝くアイデアを立ち上げるのだ。そんな声が聞こえてきた。
日本の思想家のベースは生命論である。だから、西洋人が考えるような、アイデアをレゴで組み立てるようなものではない。生命論だからこそ、自然も生命の1つとして捉え、生命がつながるように循環を大事にする。SDGsの時代だからそこ、生命論に立ち戻り、命が輝くアイデアを考えたい。
結|観察者・探求者・理論家・研究者
ほとんど誰にも知られていない、普通の人たち(常民)の努力の痕跡が、八王子の地には溢れている。ふだん記運動を展開し、誰もが自分史を通じて文章を書くことを進めた橋本義夫は、「自らの戦争責任を厳しく断罪する「戦争犯罪自己調書」をしたため、「懲罰」として「青年・少年・未来の人民のために奉仕すること」を自らに課した。そして、無名のまま埋もれた郷土史上の人物を顕彰する「建碑運動」に取り組んだり、地元の文化・歴史の研究活動に尽力した」。自分のためではなく、未来と地域に奉仕したのである。一般社団法人みつかる+わかる も、この常民の意思を受け継ぎたい。そう考えてライアル・ワトソンの本を読み進めていくと、これまた「みつかる+わかる」につながる文章に遭遇した。次の文章である。
たしかに科学的プロセスは「なぜ」という質問から出発したが、その次に「方法」というものが生まれた。人はまず何かに気づいて観察者となり、確認をするためにさらに観察を続けることによって探求者となり、事実にもとづいて推論を行うことによって理論家となった。そして、事実と自己の理論とを照合することによって研究者になったのである。
これはまさに、M+Wモデルのことを指摘しているように思える。
八王子のFeel℃ Walkは、観察し続け、そこからたくさんの推論が生まれる段階まできた。さらに事実との照合を行い、絹の研究をさらに深めていきたい。歩くことによって自分の蔵から生まれるアイデアを愛で、一生学び続ける面白がり屋になりたいのである。