ブラタモリは、ジェネレーターが Feel℃ Walk をどう面白がっているかを見事に見せてくれる最高の教材である。特に2021年9月23日放送の淡路島(前編)は、タモリさんの「ジェネレーター」としてのふるまいが随所に現れていた神回であった。そこで、ブラタモリでのタモリさんから学ぶジェネレーターのワザをまとめようと思う。
その前に ⬇️ の動画を見てほしい。
「テレビは見るもんじゃないね。出るもんだね。だってテレビ出ると面白いでしょ。いろんなこと経験できるし」
この動画の中でタモリさんは、NHKを辞めてフリーになったばかりの有働さんにこう語る。
「面白そうと感じたら、自分で動いてやってみた方がいいじゃん」
すべての番組においてこの姿勢をタモリさんは貫いている。ブラタモリも同様でタモリさんは自らが面白がっている姿を見せているだけ。だから私たちがブラタモリを見て面白そうだと思ったら自分も面白がって勝手に歩いちゃえばいい。それがタモリさんが私たちに伝えているメッセージだ。タモリさんからの「みんなジェネレーターになって面白がれ!」というエールと言えよう。
では「ジェネレーター」であるタモリさんはどんなふるまいや考え方をして歩いているのか。一言でまとめれば
「なりきり」
だ。私たちもタモリさんになりきってあてもなくFeel℃ Walkして発見しよう。
「タモリなりきリサーチ」
を面白がるのだ。
ではタモさんに「なりきる」ための基本ワザを明らかにしてゆこう。
ワザ1:発見した対象、状況になりきって語る
最初のワザはそのものズバリ「なりきる」。そもそも外国語話者になりきったり、寺山修司になりきったりするのがタモリさんの芸風だ。
明石海峡大橋がたった二つの橋げたで長い距離を支えているのを眺めているのに改めて驚き、思わず橋を支えるワイヤーに「なりきり」、ずっと引っ張っていたら「疲れそうだよな〜」と言ってしまう。
目の前の対象に自分がなりきって、擬人化して語る場面がブラタモりではよく出てくる。石になりきり、道になりきり、その対象がどんなことを語るか妄想して素直に口にする。対象に没入して自己と対象を一体化させるジェネレーター感覚を、タモリさんは、Feel℃ Walk の最中に出会った対象になりきって磨かいている。
タモリさんが「なりきる」のは、目にした対象だけではない。2019年5月にブラタモリ堺編の時の「なりきり」エピソード。あいにくの天候でドローンを古墳の上に飛ばせないと思っていたら、タイミングよく雨がやんで飛ばすことができ、古墳の全体像を見ることができた。しかし、ドローンで無事映像を見た直後、再び雨が降り出すと
「古墳を祀った人が、”今やりなさい、そんなに好きなら”と思ってくれたんだね」
と時代を超えてそこにいたであろう人になりきって心を通わせる。
飛鳥編で古代の人が通った道を歩く時も、古代にタイムスリップして、その時歩いていた人はこんなことを考えていただろうとなりきりトークを展開する。
タモリさんに「なりきる」ために目の前の事象に「なりきる」。これが第一のワザだ。
ワザ2:出会った対象・状況から連想される知識・体験とつなげる
畿内を防備する上で淡路島が重要だったということを確認するために「松帆」というところに作られたお台場の跡を見に行った。その時にタモリさんは、
「昔、ヨルタモリという番組をやっている時に、百人一首をパロディーにするというのをやってて、その時に『松帆の浦』が出てくる和歌を取り上げたけど、ここはその『松帆』?」
という風に、今、耳にした知識を覚えるだけでなく、そこから連想した「個人的体験」を想起してひもづける。幕末に外国船を見張るために作られた松帆の台場と百人一首は作られた場所が同じという以外につながりはない。しかし、今追究している話題と直接関係がないことでも、連想された「個人的な記憶(エピソード)」を語ることを楽しむ。
これまで学んできた事実と目の前の事実をつなげるのはとても大事なことだ。別のシーンで、明石海峡ができた理由は、断層の折れ曲がりが引き起こした陥没であるということを明らかにする。それは数回前のブラタモリで訪れた「諏訪湖」のでき方と同じメカニズム。その時の考え方を明石海峡に当てはめるだけで、神戸側の陸地と淡路島とが切れて間に海峡ができたことが説明できる。
こうした理解の仕方で、知識をつくりあげてゆくことはとても大事だ。極めて「お利口さんなつなぎ方」で、さすが優秀なNHKスタッフだなと感心する。前に見たこと、知ったことと類似した状況であれば、それを当てはめて類推する思考方法だ。もちろんタモリさんはこうしたアナロジカルシンキングは得意で、よく用いる。「タモリなりきり」をする私たちも類似した状況を見たらとにかくつなげて比べてみるということを習慣づけなければならない。
一方で、そんなにお利口さんじゃない、「関係ないけど思い出しちゃったんだ!」という話題を場に臆せずに投げ込んでワイワイやることができるのも重要なポイントだ。ジェネレーター Feel℃ Walkの面白さはむしろ、「松帆」からの「ヨルタモリ」のような連想の方にあると言ってもよいだろう。
「関連する知識」を披露するだけだと、あらかじめ知っている人が優位。教える人=教わる人の構図が出来上がってしまう。「これ知ってる?」という「知識マウント」が起きるのだ。それを恐れてすぐにグーグル先生を調べようとしてしまう。しかし、「関係ないけど思いついちゃったんだ!」とどんどん話題を広げてゆくのを楽しむのが面白がりジェネレーターの本領だ。
ワザ3:ユーモアあふれる言葉遊びでズラす
さて、ブラタモリではヨルタモリの『松帆』の和歌に深入りする必要はない。しかし、タモリさんに「なりきって」Feel℃ Walk をするなら、いったいどんな和歌だったんだろうと脱線する。百人一首で「松帆」が歌われているのは、
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩(もしほ)の身もこがれつつ
という藤原定家の歌。これをヨルタモリでは、初々しい海女の少女が恋人を待ち焦がれるロマンチックな歌をパロディーにしてズラし、国文学者に「なりきった」タモリさん(李澤(すももざわ)京平教授)が解説する。
出来上がったパロディーは、
濃いたれをまつ帆の浦の大うなぎ焼くやぬめりの身もこがれつつ (恋する誰かを待つ心をうなぎのようにうねらす人は、待ち焦がれるあまり体の湿度も高くなっているのです)
という思わず吹き出してしまうバカバカしい歌。しかし、これこそ江戸時代に庶民が熱中した「狂歌」の世界そのものだ。
ただ習ったまま、知ったままではなくて、自分なりにユーモアを込めて変形する。ダジャレの延長線にあるこうした言葉遊びが、先ほどの諏訪湖と明石海峡をつなげるお利口さんなアナロジー同様に、思わぬ発想の起点には大事な役割を果たす。
「アイデアはないのか?」と自分の脳みその中をストームさせても、早くよいものを出そうとあせったり、頑張らないといけないので疲れたり、あまりよいアイデアが浮かばずに落ち込んだりするのが関の山で、実は面白い何かを見出せないことが多い。それよりも、外を歩いて、偶発的に飛び込んできた情報とそれによって誘発された知識・体験をとりあえずつなげて面白おかしく料理する。それによって客観的知識ではなく、自分にひもづけられたユニークな思い出となる。こうした知識は忘れず、また、ひょんな時に飛び出してきて、さらに新たなつながりを誘発する知識・体験となる。
ワザ4:見立てて遊ぶ
ユーモアあふれる言葉遊びとともに、目の前のモノ・コト・状況を別の何かに「見立てて」遊ぶのもタモリ「なりきり」においては欠かせない。
淡路島では古代から鉄が生産されていたことを示す遺跡を訪れたタモリさん。古代人の用いていたふいご(注:火に空気を送り込む道具)を手にして、いきなり「エ〜エ〜」と変な声を出して歌い始める。ふいごの形がバグパイプにそっくりだったので、自宅近くの駒沢公園でバグパイプを吹いている人を思い出し、その人に「なりきって」バグパイプの音を真似したのだ。
なんとなく気になる
というスイッチの作動と見立ては密接に関係がある。
あの雲、〇〇みたい あの壁の亀裂、〇〇に見える
常識的な見方にとらわれず、どんな風に感じ、見えたのかを素直に語りあいながらあてもなく歩く。こうして凝り固まった思考スタイルがほぐれ、発見の感度が高まる。「見立てながら歩く」のはFeel℃ Walk によって発見の感度を高める王道と言えよう。
ワザ5:場に埋め込まれた情報を活用する
Feel℃ Walker はスマホをカメラ機能だけで使う。気になった「雑」情報はなんでもかんでも写真に撮りまくる。スマホでネット検索して調べるのはご法度だ。歩いている時は、ここまで述べた「タモリなりきり」のワザをひたすら用い、周囲の景色から素直に感じ、発見を愛で、対象や場になりきって妄想し、仮説とも呼べないような思いつきを面白がる。
しかし、外に注意を向けていると、まちの中に設置された地図・案内板・解説板・石碑などが向こうから私たちに情報を与えようと飛び込んでくる。こうして情報は、歩いていてたまたま手に入った貴重な「偶然採集」情報だ。その場でしっかり読んで、妄想仮説を広げる材料にしてもよいし、写真だけ撮影しておいて、後で家に帰ってから1日の Walk を反芻しながらじっくり読むのもよい。
タモリさんは宮司さんと石碑を見ながら語り合っていた。偶発的に飛び込んでくる、まちに埋め込まれた情報が私たちの Feel℃ Walk を豊かにしてくれることをよく知っているのが「タモリなりきリサーチャー」である。
以上、5つのワザを紹介した。これらのワザを意識すれば身近な歩き方が変わるはずだ。ブラタモリで紹介された場所をなぞり、いちいち確認して歩くような、いわゆる「パック旅行」のような歩き方はしなくなるだろう。
「タモリなりきリサーチ」によって歩けば、
ああそう言えばブラタモリでやっていたこととつながるかもしれない
と自分が訪れた場所とブラタモリの情報をつなげ、類推して考えるのを面白がったり、
よし、この対象・状況になりきって語ってみようと
というスイッチが入って、ものの感じ方・見方が変わるに違いない。
それがブラタモリを「見る」側に甘んじるのではなく、ブラタモリに「出演して面白がる人」になるということだ。
さあ気楽にどんどん歩きに行こう!