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原っぱ大学におけるパターンランゲージの生成とジェネレーターのあり方研究

塚越 暁(原っぱ大学ガクチョー)× 井庭 崇(慶應義塾大学教授)の研究から

1:「原っぱ性」復権の時代

時代は起承転結の物語で構成されている。明治から始まった「日本近代化」の物語は、平成で「結」を迎えた。今、私たちが生きている時代は、令和という新しい物語の「起」の時期にあたる。物語を立ち上げる「起」の時期に原っぱ性が持つ意味はとてつもなく大きい

原っぱ性とは、遊園地のように演出された楽しみがなく、何も計画されていない、その場で動きまわることで、中身が生成される。だから、何が起こるかわからないことにこそ、楽しみやワクワクがある。この原っぱ性とイノベーションのメカニズムはとても類似していて、日本のイノベーションが弱体化した要因は、実はこの原っぱ性の欠如が大きいのではないか、と私は考えている。効率主義を最も崇高なKPIに位置づけた平成という時代に、無駄や遊びを徹底的に排除した結果、そこに内在する原っぱ性が企業から消え去り、同時にイノベーションの下地も消え失せてしまったように思える。

塚さんが東日本大震災の年から始めた原っぱ大学の冒険は今年で10年になった。逗子の仲間と始めた冒険は、時を経て、キャンパスは千葉と大阪に拡張し、スタッフも80名に膨らんだ。しかし、10年という時間が生む世代間の感覚は大きい。同世代の仲間と共有していた原っぱ性の感覚が若い世代にはわからない。阿吽の呼吸で動く場づくりがやりにくくなってきた。さらに若者から「塚さんが考えている行動指針や考え方を言語化してほしい」と言われたらしい。そこで塚さんがピンときたのが井庭さんのパターン・ランゲージだった。たまたま大船から北鎌倉まで歩きながら行われた理事会で、塚さんが井庭さんに上記の悩みを相談し、井庭さんが快諾してくれたことで、このプロジェクトが始まったのだった。

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*顔に泥を塗られる我らが塚さん。

2:遊びジェネレーターのパターン・ランゲージ

とにかく井庭さんの授業デザインは素晴らしかった。本来、パターンラ・ンゲージの生成過程には1年という時間を擁する。熟達者にコツを徹底的にインタビューし、そこからキーとなる言葉を見出して、パターンの原形を見出す。さらに言葉を具体的過ぎず、また抽象的過ぎない絶妙なレベルに練り上げて、読み手が自由に解釈できる機能的なタグに変換していく。この1年がかりの時間軸を、なんと井庭さんは数名のTAと連携して6週間で生成するチャレンジを行っていた。

何百というパターンを生み出してきた井庭さんの職人的熟達知が生し得たチャレンジではあるが、やはり塚さんに沈澱していた遊びに対するナレッジの量と質がよかったのだろう。井庭さんに説明してもらった「遊びの聖域」と題した36のパターンは本当に秀逸で、納得性の高いものだった。何より、井庭さんの話を聴いている最中、僕は子供の頃に遊んでいた景色が浮かんできて、とても懐かしい気持ちになっていた。と同時に、36のパターンを構造化してみたらどうなるか、という好奇心もあった。パターンに順序を与えて、スタートとゴールがどんなルートで構成されるのかを考えるのだ。すると原っぱ大学スタッフの人材育成のフレームワークの原型ができるのではないか、と妄想した。

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*一般社団法人みつかる+わかるの理事4人。久しぶりの4人の議論は楽しくて、もうどうにも止まらない。

3:遊びの効用

塚さんと井庭さんの話を聞きながら、遊びの意味を再度深く考え直さなければならないと思った。どうも塚さんの遊びに関するナレッジの沈殿は、ただ楽しいを演出する表層的な遊びではない。もっと深い部分で遊びを捉えている。そこで塚さんの遊びに関する話を聴いていて、いくつか気づいたことをあげてきたい。

1)塚さんが遊びに期待していることは、上司と部下、先輩と後輩などの年功序列、更にお父さんと子供という役割すら無効化することではないか。遊びを通じて役割から解放することで真に「自由」な状態こそ、遊びがジェネレートされると塚さんは確信しているように思える。塚さんがかつて勤務していたリクルートでは、創業時から役職で呼び合うことを禁止していたそうだ。創業者の江副さんですら、”エゾリン”とニックネームで呼ばれていたらしい。忖度を引き起こす階層構造を破壊し、何でも話していい下地を整えてしまう効用がイノベーションの現場には必要だという確信が江副さんにはあったのではないだろうか。

2)遊びをブリコラージュするというのも、塚さんの遊びの思想に深く根付いているように思えた。簡単にブリコラージュするための道具は、ためらいなくダイソーである。遊びに必要な道具と自然を織り交ぜて、今できることに夢中になって向かう行為の中に、塚さんは美を感じるのではないか。

3)逆張りで遊ぶというのも塚さんぽい。遊びをジェネレートすることをよしとしながら、全く逆にルールをガチガチに決めて、そこから日常ガチガチな大人をほぐす。ほぐして役割から解放すると思いきや、便所を作るTB(トイレ部長)を任命して、仕事を与えてしまう。そういったギャップを織り交ぜながら、場自体に生きた秩序をもたらす視座が塚さんにはあるように思える。

4:クリエイティブ以前

さて、ここからは私の勝手な妄想を書く。遊びには、年功序列や役割から個を解放する魔法がある。解放された個は、それぞれが関係を構築しながらネットワークを作り、動的な秩序を自律的に生む。そこに遊びやアイデアが生成される。意図せずに、生命が生まれるように、出現してしまう。このプロセスは、何かをデザインして生み出せるものではない。このジェネラティブな経験をどれだけ持っているか、がクリエイティブ以前の初期条件なのではないだろうか。

ジェネラティブな経験は歩きながら雑を集め、集積していくと、脳内ネットワークから仮説が生成される。仮説は考えるのではなく、浮かんでくるのだ。この生成した仮説を記録し、更に雑をアーカイブし続ける。更に本を読み、他者と議論し、仮説が発酵する。すると、それは独創性の高い仮説として変化を遂げる。このプロセスを死ぬまで続けた人がレオナルド・ダ・ヴィンチであり、南方熊楠なのではないか。だから、私たちはクリエイティブ以前に、ジェネラティブな経験を積み重ねなければならないのではないか。この認識を持って、私たちはまずは歩き、世界が差し出してくれる豊かなものに眼をむけるトレーニングを積み重ねることから始めようと思う。