JR川崎駅で市川さんの到着を待つ時間、いつものように地図看板の前に立ち、何があるのかを眺める。川崎ラゾーナの裏に気になる神社をを発見した。「女躰神社」と言う名前の神社だ。
直観で「氷川か?」と思う。男体、女体の対になっているのは、武蔵国では氷川神社だからである。行ってみると、予想が外れる。氾濫する多摩川の災害に対して、女性が身を捧げて、地域を守った。その女性を神として祀った神社だった。多摩川の土手に出ようとするが彷徨う。彷徨いながら、春の植物を愛でる。鉄道高架下の植物たちは異常な幹の太さと高さで、太陽を求めて、地の栄養をできる限り吸収しているのかもしれない。
六郷大橋を横切って、多摩川の土手に出ようとすると「六郷の渡し」跡があった。海に近い多摩川の川幅は広い。そこに橋をかけ、江戸への交通を一気に改善しようとしたのは徳川家康である。1600年、家康は多摩川に大橋をかけて、江戸輸送路の拡張を着々と行っていた。しかし、80年後の洪水で橋は流され、それ以後明治まで、ここは渡し舟で行き来していた。多摩川には渡しがたくさんあった。
六郷の渡しから少し歩くと、大師道の小さな追分があった。昔は六郷の渡しを降りて、すぐに川崎大師へ向かう道が整備されていた。その痕跡を見つけた。行ってみよう。
土手の急勾配を滑り降りるように大師道を歩く。しかし、多摩川沿いの大型マンションの開発で、小道は途中で途切れてしまう。江戸期の旅人の心性に触れる物語に突入したと思ったら、途端に平成に引き戻されてしまった。気を取り直して土手に戻ろう。
そこに大正期の水門が現れた。この多摩川の水門は、第一次世界大戦の好景気の中で工業用地の拡大を図る運河・港湾整備の1つである。現代の水門と違い、個性がある。水門の上には当時の川崎市の特産物である梨・ぶどう・桃があしらわれている。
さらに歩くと広大な工場地が見える。これはなんと味の素の工場だった。住所に注目したい。川崎市川崎区鈴木町。なんと創業者の名前が土地の名前になっている。こんな場所、愛知県豊田市くらいしか知らない。味の素の工場の端から端まで歩いて、土手を降り、いよいよ川崎大師へ向かう。
川崎大師の門前町と寺へ向かうまでの表参道は迷路である。葛餅屋として有名な住吉屋総本店のお土産の包み紙は、大正時代の門前町を描いたものだが、これを見ても当時から迷路のようで、京急川崎大師駅から行くとUターンするような感じなのだ。僕らは迷いに迷って、西解脱門から川崎大師に入った。川崎大師の正式名称は、金剛山金乗院平間寺という。
ここで一際目立つのは、八角五重塔である。ここには空海の師匠、恵果阿闍梨が祀られている。川崎大師で人々の信仰を担っているのは「人」である。ここが成田山新勝寺との違いであろう。成田山は不動明王を敬い、川崎大師は「弘法大師 空海」その人を敬っているのだ。緊急事態宣言前で境内には人が少なく、門前町も寂しい。お土産は大きく3つに分類され、ダルマ、のど飴、葛餅である。ダルマを販売している柏屋の親父と話す。ここのダルマは群馬県の高崎産かと尋ねると、埼玉県の岩槻産だという。日本人形だけでなく、岩槻ではダルマも作っているのか、とびっくりした。
さすがにお腹が空いてきた。稲毛神社の裏から川崎駅へ戻ろうとすると、「とんQ」という名のトンカツ屋を見つけた。
「とんQで、とんかつ探究ですね」
ということで、何気なく入ったこの店。ミシュランガイドに掲載される名店だった。僕はロースカツ、市川さんはヒレカツを食する。肉が柔らかくて、本当に美味しいかった。
このFeel℃ Walkの時間軸の振り幅は半端ない。京都だと8世紀から19世紀の幅がほとんどだけれど、川崎だと紀元前から20世紀までを行ったり来たりする。その振り幅の時間の地層の変化を楽しむ。そして、そこから見えてくる法則を仮説として市川さんと語り合う。この時間こそ、贅沢な時間でなのある。学ぶということは、これまで拾ってきた雑の量が、質(法則やパターン)に変化する「量質転化」であり、その変化を味わい愛でること。これを「幸福」というのである。