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江戸城お堀探検

東京の水路を船でじっくり観察する

· 学びの眼鏡

起|日本橋川

日本橋の袂には東京の水路をめぐるクルーズ船乗り場がある。

先日、We are Generators 自由研究で、江戸城のお堀をめぐってカイトさんと古川さんが発表をしてくれたのだが、その延長企画「日本橋川クルーズ」が先日実施された。カイトさんが「舟遊び みづは」を予約してくれて、なんと貸切で江戸城のお堀を探検する機会をつくってくれたのである。

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*みづはに乗ると水路が詳しく描かれているクリアファイルがもらえる

「舟遊び みづは」の貸し切り船は最大12名のかわいい船で、小型であるため水路も通ることができる。今回のコースは日本橋を出発して日本橋川を登り、小石川のあたりで神田川に合流し、水道橋やお茶の水のあたりを通って、隅田川に出る。そこから佃島のあたりで亀島川の水路に入り、日本橋川に戻る、合計90分の探検である。

船に乗って日本橋川を眺めると意外に川幅がある。昔、日本橋川には河岸と呼ばれる船の積み荷を下ろす場所がたくさんあった。僕らが船に乗った日本橋の袂は明治期に舟運の賑わいを取り戻すために行事で市川團十郎と坂田藤十郎といった東西の歌舞伎役者がここから船に乗り込んだ場所で、それにちなんで「双十郎河岸」と呼ばれていたそうだ。

一つ橋という名前の橋は、徳川御三卿の一橋屋敷があった場所で、ここはブラタモリでも取り上げられたが、江戸城の石垣がそのまま残っている。古ちゃんの発表で注目した天下普請時のマーク入り石垣も見ることができた。

承|神田川

神田川にでると川幅が狭くなった。小石川のあたりを右に折れるとすぐにゴミ運搬船が見えた。ここは千代田清掃事務所三崎町中継所と呼ばれる、ここに集積された不燃ゴミはこのごみ運搬船に積み替えられ、東京湾内にある不燃ごみ処理センターまで運ばれて中間処理し、最終的には中央防波堤外側埋地処分場で埋立処分されるそうだ。

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水道橋からお茶の水あたりの神田川は深く、聖橋は船から眺めると相当高い位置にある。かつて神田川は平川と呼ばれて、江戸時代、何度も瀬替えをした。その瀬替えの際に掘った土は築地の埋め立てに使われたそうだ。

万瀬橋をこえて隅田川に近づいてくると川幅は少し広くなる。すると、座敷船がたくさん停泊していた。ここから隅田川に出て、お台場の方までいき料理を食べて戻ってくるコースが多いそうだ。 

転|隅田川〜亀島川

隅田川に出ると船の揺れが突然大きくなった。川幅が広く、海のように感じる。船が進むと波にぶつかり水飛沫が上がる。両国橋が見えた。大きな橋で、江戸の古地図にも大きな橋がかかっていることがわかる。両国とは、武蔵国と下総国の国境にあったから、2つの国を結ぶ橋で「両国橋」というのだそうだ。地名には必ず、その背後に意味がある。その意味を知るだけで、知に奥行きが生まれる感覚がある。

佃島を過ぎて、右手に聖路加タワーを眺め、亀島川に入った。亀島川はもともと川があったわけではない。海を埋め立てる際に人工的につくった川だ。東京湾に近いため潮の満ち引きの影響が大きい。人工的に作られた岸は階段状になっていて、潮の満ち引きにうまく対応する作りになっている。

日本橋水門をくぐり、日本橋川に戻ってきた。

結|再び日本橋川

東京証券取引所が左手に見えた。ここは兜町と呼ばれているが、橋は鎧橋と命名されている。土地がカブトなら、橋はヨロイという言葉遊びである。日本橋側にかかる橋の名前は遊び心にあふれている。例えば、あいあい橋。飯田橋の近くにあり、飯田橋を英語で表記するとIIDABASHIなので、IIを「あいあい」と呼んだのだそうだ。

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*江戸の古地図をみると、日本橋川と神田川が繋がっていない。ここはいつ頃貫通したのか、調べる予定。

日本橋の袂に戻ってきた。江戸城のお堀探検もこれで終わりだが、見えてきたのは水都としての東京のかつての姿である。戦後、東京五輪に合わせて首都高速が作られ、堀は蓋をされるようにあまり目にされることがなくなってしまった。しかし、川の目線から再び東京を眺めてみると、輸送・運輸の動脈として、非常に大事だったことがはっきりわかる。今では鉄道や自動車で陸運が中心になってしまったが、かつての大量輸送のシステムは水路だった。それがありありと浮かび上がってくる貴重な体験だった。