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DA VINCI MODE(2)

みつかる+わかるモデルの基本構造

· 学びの眼鏡

みつかる+わかるモデルの基本構造

 みつかる+わかるモデルは、学びのエナジーとなる「発見の喜び」と、それを「解明し、表現する」2つの学びの領域を連結する形で構成している。2つで1つ、両部不二の学びと言える。面白いことに、このラーニング・モデルは、平安初期、真言密教を広めた空海が師匠・恵果から譲り受けた両界曼荼羅の構造と似ている。

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 基本構造図を見ながら、詳しく見ていこう。「みつかるモデル」は、胎蔵界曼荼羅に対応する。胎蔵界とは、曼荼羅研究者の正木晃の言葉を借りれば、「万物の子宮」である。母の子宮で命が誕生し、育まれるように、自分自身の体験に紐づいた学びの種を見つけ、育むのである。みつかるモデルは、歩くことをベースとしている。歩くスピードで、周囲を見渡せば、いたるところに<不思議の種>がある。この種を「発見」し、仮説を生み出すことがみつかるモデルの目的である。

 一方で、「わかるモデル」は金剛界曼荼羅に対応する。金剛界とは、さとりの世界へ誘うステップを論理的に記したものである。修業によって俗の世界から聖の世界へ移行するように、みつかるモデルで発見し導いた仮説が正しいか否かを解明し、自らの論を論理的に表現するのである。わかるモデルは、育んだ仮説を徹底的に調べる。仮説をさらに磨き上げ、その仮説は自分だけのものに留めず、誰もがわかる形で「解明」し、「表現」する。自分だけの枠を超えて、社会に貢献する態度を、私たちは「半公(はんこう)」と呼んでいる。したがって、わかるモデルは、仮説を進化させ、半公するために表現することが目的である。

G(禺)とみつかる+わかるプロセス

 みつかるモデルもわかるモデルも学びのプロセスは5つあり、それぞれのプロセスに「禺」の漢字があてがわれる。以下では、そのプロセスを解説しよう。

<みつかるモデルの5G(禺)>

A:「遇」=あてもなく歩く、たまたま出遇う

歩くプロセスの中で、私たちは様々なものに出遇っている。しかし、出遇っていることに気づいていないことが多いのかもしれない。ゆっくりとキョロキョロ楽しみながら歩いていると、「見つける」のではなく「見つかる」から不思議だ。人類学者の今福龍太は「歩くことは、空間の移動であることを超えて、認識の大きな飛躍をもたらす身体知技法」であるとし、「<歩く人>として自ら覚醒した者だけが、真の<野生>、すなわち権力によって与えられた<市民的自由>を超える<絶対的自由>の領土としての<野生>に踏み込むことができる」としている。リチャード・トレンチによれば、「野生」wildとは「意志を持つ」to willの過去分詞形である。つまり「野生の」馬とは「意思のある」馬、みずから意を決した馬のことである。

B:「偶」=偶然発見する

蝶や蜂が雄花の花粉を足につけて、偶然雌花に触れることによって受粉するように、何が引き金となって偶発するのか、わからない。しかし、その偶然を楽しむことが肝心だ。気の向くままに歩いていれば、必ず偶然<不思議の種>がみつかる。学びのモチベーションを維持・継続するには、個人的な体験に紐づいた「発見」が非常に大切になる。数学者の岡潔は『春宵十話』のなかで、数学を学ぶにあたり「ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きている」といい、その喜びは「発見の喜び」だと強調している。「発見」こそ、学びのエナジーである。どんな小さな発見でもいい。みんなで不思議の発見を愛でよう。

C:「隅」=全て網羅せず好奇心の赴くまま一隅を照らす

いくつか見つけた<不思議の種>の中から、一番惹かれる種を決めて、学びをフォーカスする。フォーカスすることの意味について、J.P.エッカーマンは「ゲーテにしても、つとめて多面的な洞察を得ようと努めたが、活動面では、ただ一つのことに自分を限定した。唯一の技術だけに打ち込み、しかも大家にふさわしくなるまでに打ち込んできた。すなわち、ドイツ語で書くと言う技術である」といい、分散せず、1つに集中することの大切さを問いている。

D:「寓」=一貫した寓話(仮説)が見えてくる

学び続けているうちに、自分なりの仮説が浮かび上がってくる。仮説は大抵アナロジーから導かれる。歩いていると、何となく似たものが見えてくる。その似ているパターンを導くことこそ「仮説の誘導」である。歩き続けることで、パターン=仮説誘導を常に仕掛けることが重要だ。

E:「愚」=愚直に知図を蓄積する

歩くたびに仮説が変わるかもしれない。だから歩くたびに知図を描こう。愚直に知図をためることが、わかるモデルにジャンプするエネルギーになる。レオナルド・ダ・ヴィンチの現存するノートは7,200枚だが、7,200枚の知図を描くことができれば、その人は天才の領域に足を踏み入れることができる。みつかる+わかるの「+」は、まさに知図のことを指しているのである。

<わかるモデルの5G(禺)>

F:「寓」=寓話(仮説)を調べる

自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分で考えた仮説を、先人はどう考えていたのか比較検討する。そのために本を読まなければならない。徹底的に調べて、自分の仮説の有効性を考える。

G:「遇」=現地・現場・現人と出遇う

自分の仮説を本で調べるだけでなく、再度現地に赴いて、現場を調べ、人と話をする中で、さらに仮説が磨かれる。現地に赴くメリットは、何と言っても本やWEB上に掲載されていない「未知の情報」があることだろう。その情報が仮説と融合すれば、これまでにない独自の仮説が生まれる。

H:「偶」=仮説がさらに偶発する

本を読む、人と話す中で、仮説がさらに膨らみ、磨かれる。これまでの仮説に固執せずに、常に進化させる意識を持とう。

I:「愚」=愚直に探し表現し続ける

半公するには、わかりやすい表現が必要である。しかし、わかりやすい文章を書くことは難しい。ここは愚直に文章を書き、訓練することが必要だ。スポーツをする感覚と同じで、初めから150キロの直球を投げられるピッチャーはいない。筋トレや柔軟、ピッチング理論を積み重ねて、ようやく形なるのと同様に、文章をわかりやすく書くにも、愚直なトレーニングしかない。

J:「隅」=有力で面白い論が生まれる

こうしたプロセスを経て、独自の「論」が生まれる。しかし、その論も時代によって変化するかもしれないし、ゴールはない。常に進化し続けるステップ・ストーンのようなものだ。

みつかる+わかるモデルにおけるジェネレーターの役割

 場をファシリテートしながら、自らつくり手として参加する存在のことを、私たちは「ジェネレーター」と呼んでいる。「ジェネレーター」は、創造社会での創造実践において欠かせない「あり方」として当社団の井庭崇と市川力が提唱した呼び名である。みつかる+わかるモデルにおけるジェネレーターはモードが違うため、そのあたりを詳しく説明しておきたい。

 みつかるモデルにおいて、ジェネレーターは「縁起」の論理で行動する。あらゆる偶が縁となって、学ぶきっかけが起き上がるのを面白がりながら一緒に導くのがジェネレーターの役割である。Feel℃ Walk(発見感度を高める歩き)をしながら、ジェネレーターは学生と一緒に発見を面白がりながら、ある事象とある事象を結びつけて共通項を見出すような「思考の補助線」を提示したり、アナロジーを誘発しながら、仮説発見に寄与していく。

 一方で、わかるモデルでは、モードが変わる。ジェネレーターは「因果」の論理で行動する。原因と結果の法則を見出し、社会の進化に貢献できるように働きかける。その際、Fusion Walk(融合のための歩み)をし、仮説を検証し、さらに仮説を融合させ、独自の論に導く。また、Fantasy Walk(表現を訓練する歩み)で、論にまとめる、あるいは作品に仕上げるお手伝いをする。

 このようにジェネレーターは2つのモードを使い分けながら、学生たちの学びを育んでいく。これまで量産してきた記憶力と情報処理力の高い優等生は、AI(人工知能)が発達すれば、間違いなくその役割が代替されることになる。人間の新たな役割は、やはり「創造性」に注力されるだろう。人間が持ち前の好奇心をベースに、創造力を発揮しなければならない時代に突入しているにもかかわらず、相変わらず教育体制は変わらずにいる。多くの学生は自分独自の発見に基づく学びのエナジーがない状態で学校に入学している。したがって、多くの学生は「学校に入っても何を学んだら良いかわからない」状態であり、根無草のような状態で、記憶と処理のテストを繰り返されており、苦痛でしかないだろう。この中国の王朝が科挙制度を採用してからほぼ変わっていない、永遠とも言える課題を解決するためのラーニングモデルとして、みつかる+わかるモデルを開発し、先生に変わる「ジェネレーター」という役割の重要性を今回のブログでは説明してきた。来週は、このみつかる+わかるモデルで独自の天才性を育んだと考えられるレオナルド・ダ・ヴィンチの学びをシンクロさせてみよう。