経験と実践を重んじる生き方
レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリアの公証人だった父ピエロと貧しい農家の娘カテリーナの間に生まれた「非嫡子」だった。非嫡子であるため正式な学校教育を受けられなかったため、「経験と実践を重んじる生き方」を身につけた。経験こそすべて、である。ダ・ヴィンチはノートに次のように書いている。
”私が教育を受けていないために、一部の口さがない人々が「教養のない男」と批判するのはよくわかっている。愚かなやつらだ!(中略)彼らは尊大な態度で闊歩するが、その知識は自らの努力で得たものではなく、借り物に過ぎない。(中略)私が書物から学んでいないので、表現すべきことを的確に述べる能力がないと言うのだろう。しかし私の専門分野に必要なのは他者の言葉ではなく経験であることを、彼らはわかっていないのだ。”(上巻p37)
ウォルター・アイザックソンは、非嫡子で生まれたことは、彼の天才性を育むにあたっては幸運だった、と言う。もし、公証人を引き継いでいれば、伝統的なフォーマットに囚われ、自由で独創的な発想を許してもらえなかったからである。
ダ・ヴィンチのみつかる+わかるプロセス
A:「遇」=あてもなく歩く、たまたま出遇う
伝統思想に縛られず、自由な発想と好奇心で、あらゆる情報を吸収し、持ち前の美的センスで「形」にし、幼い頃から実験を繰り返していたのだろう。人々が学校で教科書で「知識」として叩き込まれた「当たり前」のものも、ダ・ヴィンチは新鮮な感覚で受け止め、じっくり観察している。彼の観察に対する態度は人と違い、情報をもれなく吸収する技術とワンセットである。次のような弟子に対する指示が面白い。
”お前が遠近法をすっかり修得して、人体の釣合を暗記してしまったら、散歩のとき一所懸命に人間の運動を観察するがいい。立っている姿、歩く姿、話をする姿(中略)-こういうのもをよく観取して、色紙で作った小さな手帳に、できるだけ早く鉛筆で書き込むがよい。また、手帳はいつでも肌身離さず持って歩かなければならぬ。”(「神々の復活」:p168)
この引用はメレシコーフスキイ の「神々の復活」からのものだが、これに触発された人物こそ、高校生の梅棹忠夫、その人である。
B:「偶」=偶然発見する
”レオナルドの意識とペンは、機械学に関する気づき、巻き毛や水の渦、顔のスケッチ、独創的な装置、解剖図へと次々に飛んでいき、それぞれに鏡文字でメモや考察がつけられている。それでも、このでたらめな羅列を眺めているとワクワクしてくる”(上巻p148)
ウォルター・アイザックソンはダ・ヴィンチのノートを見て、上記のように述べているが、これこそ、知的好奇心の赴くまま、情報を拾い集めた「知図」の特徴と言えよう。このでたらめな羅列を参考にしたのだろう。川喜田二郎は「探検の五原則」において「原則2:飛び石づたいに取材せよ」と書いている。「現場に行き、そこで得たヒントに従って次の現場を決める。初めからどこへ行くか末端まで計画は立てない」をルールにしているのだ。こうみると、ダ・ヴィンチのノートも私たちが作った知図も、知的好奇心のカーソルが何に向いていたのか、がわかる重要資料としても面白い。
C:「隅」=全て網羅せず好奇心の赴くまま一隅を照らす
様々な情報をノートに集めつつも、あるタイミングで1つのテーマに絞っている。例えば、水の研究を取り上げてみよう。彼は水の動きを観察する際、雑穀、葉っぱ、木の棒、染料、色インクなどを使っていて実験をしていた。
”水の中に何粒か雑穀を落とせば、それを運ぶ水の動きがすぐわかる。この実験を手がかりに、一つの流れが別の流れとぶつかったときに生じる美しい動きをさらに探究できるだろう。”(下巻p195)
とノートに記している。分散しながら集中する。これはダ・ヴィンチの知的生産の行動パターンである。
D:「寓」=一貫した寓話(仮説)が見えてくる
ダ・ヴィンチの仮説構築に関して、ウォルター・アイザックソンは上・下巻を通じて、「アナロジー(類似思考)」を使い、パターンを発見していたといい、次のような指摘が見られる。
”レオナルドは自然を研究するとき、大抵アナロジーを使って理論を構築していた。芸術や科学などあらゆる領域の知識を探究したことで、パターンを見抜く目が養われた。”(下巻p161)
”いつものように、ここでもアナロジーを用いている。水の渦を生み出す要因と、髪のカールのそれとを比較しているのだ。「水面が渦巻く様子は、髪の動きと似ている。髪には二つの動きがあり、一つは房の重さ、もう一つは回転の向きに応じて決まる。水の渦も同じで、一つは主となる流れの勢い、もう一つは副次的動きと逆流によって生じる」。この短い文章からは、レオナルドの探究の原動力が読み取れる。自分の好きな二つのもの(このケースでは巻き毛と水の渦)に共通するパターンを発見する喜びだ。”(下巻p199)
つまり、知的好奇心の赴くまま得た情報の中から、何となく似たような情報を比較検討する中で「法則性」を導く、拡張的推論思考である、といえる。
E:「愚」=愚直に知図を蓄積する
ダ・ヴィンチが習慣的にノートを取り始めたのは1480年頃のようだ。現存するのは7200枚のノートだが、実際にはその4倍あったと言われている。想像を絶する「知図」の量である。
”ノートの良さは、ちょっとした思いつき、生煮えのアイデア、粗いスケッチ、論文の草稿など、これから磨いていくべき原石の仮置きできることだ”(上巻p148)
そう。まさに「原石の仮置き」、表現・作品に繋がる原石となる素材集であって、それが何と3万枚近くあったということなのだ。
F:「寓」=寓話(仮説)を調べる
ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を発明したのが1445年だから、書籍が一般流通しやすくなる、まさに黎明期にダ・ヴィンチは生きていた。経験の学人である、と言っていたダ・ヴィンチであるけれど、書籍の知識を馬鹿にはしていなかった。むしろ、科学、数学、建築学、美術技術を取り入れながら、アートとサイエンスを融合させていった。
東方三博士の礼拝のデッサンはまるでコンピュータグラフィックスのような精密さ
"1492年には蔵書は 40冊近くに膨らんでいる。(中略)1504年には蔵書はさらに70冊以上増えた。内訳は科学書が40冊、詩や文学が50冊弱、美術や建築書が10冊、宗教書が8冊、そして数学書が3冊である。"(上巻p228)
G:「遇」=現地・現場・現人と出遇う
また、彼は自身の経験だけでなく、現場の意見を、まるで人類学者のように収集している。
"サライーノやマルコの話によると、レオナルドは長年のあいだ辛抱づよく、竜巻や、洪水や、疾風や、崖崩れや、地震や、そういう物を見たことがある旅人などに、根ほり葉ほり訊ねて、正確な事実を掘り出しているとのことであった。そして、学者のような態度でこつこつと、新しい観察見聞を蒐集しながら、制作の題材を組み立てていくのであった"(「神々の復活」:p188)
さらに、宮廷サロンに出入りしていたダ・ヴィンチは、様々な分野のエキスパートから知識を吸収し、知を横串に編集することで革新的なアイデアを生み出していった。
H:「偶」=仮説がさらに偶発する
「ノートを見ると、レオナルドの進化の跡がうかがえる。1490年代に書物から知識を吸収し始めたことで、経験的エビデンスだけでなく、理論的枠組みも研究の拠り所とする重要性を理解した。それ以上に重要なのは、両者は相互補完的なアプローチであることに気づいたことだ。」(上巻p230)
こうして、知が融合し、新しいアイデアが泉のように湧き出したのである。
I:「愚」=愚直に探し表現し続ける
"レオナルドにとっては、絵を描くことが思考実験になった。考案した装置を実際に作るのではなく、ノートに描いてみることで、その動きをイメージし、永久運動を実現できるか評価することができた"(上巻p256)
"レオナルドは、絵画を光学という科学的探究や遠近法という数学的概念と結びつけ、画家という仕事やその社会的地位への評価を高めようとしていた"(上巻p338)
このように、単なるアートを超えたサイエンス・アートとして、ルネサンス期の画家たちの作品は一気に進化をしたのだった。
J:「隅」=有力で面白い論が生まれる
こうして、ダ・ヴィンチは人類の宝とも言える作品の数々を残したわけだが、その源泉はノート=知図だったことがわかるだろう。
ウォルター・アイザックソンは下巻最終章において、「レオナルドから学ぶ」ものとして、「紙にメモを取る」を挙げ、次のように語っている。
"その死から500年が過ぎた今でも、レオナルドのノートは現存し、われわれに驚きと刺激を与えている。われわれがノートに記録を残すという取り組みを始めれば、今から50年後、孫の世代が驚きと刺激を受けるはずだ。ツイートやフェイスブックの投稿ではそうはいかない"(下巻p310)
そう。今こそ、ダ・ヴィンチ・モードに戻ろう。私たちは内発的な知的好奇心の赴くまま、不思議を記録し、知図を書き始めなければならないのである。