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櫻井探検

奈良を歩いて「古代」と世界のつながりを妄想する

起|大阪とつながる奈良南部

 大阪難波駅から近鉄特急に乗って大和八木駅を目指した。今回の目的は、桜井市にある安倍文殊院。快慶がつくり出した国宝「渡海文殊群像」を観ることである。いつものことだが、探究の旅は、修学旅行のような細かな計画は立てない。しかし、なんとなく「ここへ行く」という目的地は必ずあって、そこへ行くまでのプロセスは自由である。目的地に向かう道中で、僕らは必ず「思いがけない発見」に遭遇する。これはまさにスタンフォード大学のジョン・D・クランボルツが言う「計画的偶発性理論(Planned Happenstance Theory)」である。まさに探究の種になる「発見」は計画的偶発の中で常に起こる。不思議だけれど、必ず起こる。

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 僕は大学生の頃、京都に暮らしていてJR奈良線稲荷駅の近くのアパートにいたから、なんとなく京都からJR奈良線の快速で行くのが一番近いと思い込んでいた。しかし、奈良へのアクセスは、確実に大阪の方が便利だ。特に大阪の中心地へのアクセスは抜群で、大阪難波駅から桜井駅まで特急を使えば46分、奈良駅までは55分で到着する。完全な通勤圏なのである。

 この大阪と奈良の結びつきは大和川を介して古代から強かったと思われる。おそらく飛鳥時代、それ以前の古墳時代から、渡来人たちは堺の港から大和川を利用して、飛鳥や三輪山の麓にあった王宮に向かっただろう。そのルートには大仙古墳などの巨大な墓群(藤井寺や羽曳野の辺りの大和川周辺にも巨大な前方後円墳がたくさんある)、生駒山から岩橋山、葛城山に連なる自然の要害を抜けて飛鳥寺や法隆寺の高度な建築を観た渡来人たちは驚きを隠しきれなかっただろう。そして、この国を攻め落とすのは大変だと言う印象を持ったに違いない。しかし、これはそう言う印象を恣意的に抱かせる「仕掛け」であり、時の王権が諸外国に舐められないためのプロモーションだったのではないか、と僕は考えてしまう。そして、大和川水運の終着地が、これから向かおうとしている三輪山の麓、桜井の地である。

承|安倍一族

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 近鉄桜井駅から歩いて安倍文殊院に向かう途中、若櫻神社に遭遇した。桜井の地で「櫻(さくら)」がつく神社だから、何かあるのだろう。そう思いながら鳥居をくぐると、地元の人たちが境内を掃除していた。看板を見ると「記紀によりますと、第17代履中天皇のは、各地に国司や国史を置き、諸国に意向を広く伝えるとともに、諸国の記録を残すようにするなど、国の仕組みを整え、国家を安定させようとしたと記されています。また、磐余池を造ったとされる一方、磐余市磯池で舟遊びをしていると、杯に季節外れの桜の花びらが舞い落ちたことから、宮名を磐余稚桜宮としたとされています」とあり、古墳時代のかなり古い天皇に縁のある場であった。

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さらに歩き、坂を登ると安倍文殊院があった。安倍文殊院は「孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立した」のが始まりと言われている。修学旅行の女子学生がたくさんいたが、僕が着いた時は帰るタイミングだったようで、境内を静かにゆっくりと堪能できた。安倍一族で有名なのが安倍仲麻呂と安倍晴明だろう。安倍仲麻呂は遣唐使で日本史の教科書では必ず出てくる有名人だ。時の皇帝の玄宗が、仲麻呂があまりに優秀で帰国を許さなかったと言う。また、安倍晴明は陰陽師の有名人である。安倍晴明以降、安倍氏は中世から土御門家を名乗り、代々陰陽道を引き継いでいる。

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池の浮かぶ弁財天を祀る仲麻呂堂。ここではお堂を時計回りに7回まわってお札を納めて、初めてお堂の中を参拝できる。この中には弁財天とともに、安倍仲麻呂と安倍晴明の木像がある。

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いよいよ本殿にて、国宝「渡海文殊群像」を観る。天才仏師・快慶がつくった文殊菩薩は7メートルあり、さらに獅子に跨っている、とてもユニークで美しい仏像だ。僕が見た文殊菩薩の中で、間違いなく日本一美しい文殊である。知恵の神様と言われる文殊様に静かに祈り、そして可能なところまで近づいてじっと観察する。それを何度繰り返しただろう。文殊菩薩は文句なく美しいのだが、獅子の表情がなんともいえず可愛い。漫画に出てくるようなキャラクターのようにも見えて、愛着感が半端ない。この獅子が覗き込むように見ているのが、善財童子(ぜんざいどうじ)と呼ばれる子供の像で、こちらも動きのあるユニークな像だ。その奥には、獅子を手懐けている優填王像(うでんのう)がいる。左手には維摩居士(ゆいまこじ)と仏陀波利三蔵がおり、5体セットで国宝になっている、貴重な仏像であった。

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この安倍文殊院で1番の発見は、この地で安倍晴明が天体観測をしていたことだ。陰陽道とはある意味「天文学」である。星の動きを観察し、その動きと社会の動向を関連づけて意味を捉え直すのが陰陽師であろう。その現場に立てたのが1番の感動だった。

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安倍晴明の天文観測の場所から眺める桜井の景色は美しかった。

転|石垣探究

安倍文殊院には2基の古墳がある。西古墳、東古墳と呼ばれている。西古墳は石室に入ることができ、その中に地蔵菩薩が祀られていた。しかし、僕が気になったのは、古墳の石積みであった。これは石舞台でも感じたことであるけれど、ほとんどエジプトのピラミッドの石室を彷彿させる。

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飛鳥時代、大化改新の頃から変わらないと看板に書いてあったのだが、僕は石室で、当時の石組みの正確性に驚いてしまった。石組みと言えば、城の石垣だが、900年後(戦国時代)の石垣よりも左右対称で美しい飛鳥時代の石組みの方が進んでいるように感じてしまったのだった。

おそらくこの巨大石室を墓とする文化は、渡来人によってもたらされたのではないか。ブラタモリでも解説していたが、当時の飛鳥は渡来人による最先端の文化が反映され、噴水や水時計があったと言う。松本清張は、その影響はおそらく古代ペルシアのペルセポリスにあると推察している。しかし、この古墳を観る限り、僕はもっと古く、エジプト王朝が栄た紀元前から人々の交流は盛んで、エジプトや地中海の情報は船で日本まで届いていたように思える。

ところで11月に金沢城を訪れた時、面白い情報に遭遇した。

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金沢城の石垣は、様々な手法で石積みがなされており、石垣の博物館と呼ばれているそうなのだ。看板に解説されているだけでも3種類ある。1つは自然石積み。これは自然の石を荒削りして積んでいく、いわばプリコラージュ的石積みである。2つ目が粗加工石積み。これは形の整った粗加工石を積む方法。3つ目が、まさに切石積みと言って、安倍文殊院の石室のように石を正確に削り、隙間なく積み上げる方法である。実は石積みの方法は、臨機応変に、素早くブリコラージュ的な積み上げから、まるで一枚の石のように丁寧に切石でつなぎ合わせるものまで、バリエーションが広がっていたと言うことなのだ。そう見ていくと、石積みの技術が現代にはどう進化しているのか、調べてみたくなった。

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金沢城の石垣。これは切石積み。

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金沢城の石垣。こちらは粗加工石積み。

結|櫻の井戸

実は朝寝坊して、桜井についたのは13時だった。安倍文殊院を堪能した後、できれば藤原鎌足を祀る談山神社が紅葉で綺麗だろうと立ち寄ってみたかったのだが、時間はすでに16時だったので、近くで気になるところを探検した。発見の1つは「土舞台」と言われる場所だ。

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看板によれば、聖徳太子が設立した国立の演劇研究所であるという。日本のエンタテインメント発祥の地と言ってもいい場所に誘われて、エンタメのフォースに導かれてしまった。土舞台から桜井小学校の裏道を降りていくと、学校帰りの高校生の集団に合流した。しかし、横道に気になるところがあって、導かれるように入っていくと、なんと「桜井」の地名の元となっている「櫻の井戸」を発見してしまった。

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ちょうど若櫻神社のあたりだったから、やはりこのあたり(磐余稚桜宮)が桜井の中心だったのだろう。桜井という土地は、三輪山が中心で大神神社が宗教を司る中核だとすれば、かつてはその北にあたる纒向が政治の中心だったのかもしれない。それを物語るのが纏向遺跡だ。そして、天理のあたりには軍事拠点があった。それが石上神宮である。そして、三輪山より南には天皇が生活する場として、磐余稚桜宮があった。その近くに側近が居を構え、その1つが安倍一族だったのではないか、今はそういう頭の整理をしている。まだまだ、奈良は僕にとっては未開の土地であり、探検を続けたい場所である。