振り子打法は「面白仮説」を導く方法
みなさん。はじめまして。「おっちゃん」こと、市川力さんと共に一般社団法人「みつかる+わかる」の代表理事を務めます原尻淳一と申します。普段はマーケティング・コンサルタントとして、企業のビジネスサポートをしているかたわら、龍谷大学で学部生に「マーケティング論」と「知の技法(アカデミック・スキルズ)」を教えております。
さて、今日は、タイトルにもあるように「学びの振り子打法」についてお話してみようと思います。これは僕の「学び」を面白がる極意の1つなのですが、あまり人には話したことがありません。というのも、この振り子打法は「面白仮説」を導く方法で、決して証明された真実ではないからです。しかし、他人の意見ではない、ユニークな視点は現代日本が一番必要としているものでもあります。そこで、あまり人に話したことがないことを話してみようと思ったのです。
みなさんは、網野善彦という歴史学者をご存知でしょうか。僕が憧れる歴史学者の一人です。明治大学野生の科学研究所所長の中沢新一さんの叔父さんとしても有名ですね。歴史を国家の視点ではなく民衆の視点で描く稀有な学者で、一番読みやすい本としては『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)があるでしょう。この本を僕は大学生になる直前の春休み、京都の下宿で読みました。そこで次のような一文に惹かれたのです。
「知らなかったなぁ、港は昔、津とか泊と言われていたのか」と思った瞬間、京都にいたからでしょうね、滋賀県の県庁所在地である「大津」が浮かんできたのです。「もしかして、大きな津=港って意味?」。すると、いろいろ浮かんでくる。「三重県の県庁所在地の<津>なんて、もろ港ってことか?!」。こういう気づきの瞬間って、たまらないですよね。知的学びの着火とでも言いますか。そこで調べるといろいろなことがわかってきます。
室町時代末。三津七湊(さんしんしちそう)と言って、日本の十大港湾として成立していたそうなんですね。面白いのが瀬戸内と太平洋側は「津」という言い方をしていて、日本海側は「湊」という言い方なんです。これには理由があるだろうと思いますが、とにかく、博多や堺といった貿易港も「津」と言われていました。そう考えると「津」がつく地名って結構あります。
思いつくままにいうと、静岡の沼津。陸路と海路をつなぐ東海道の要所ですね。琵琶湖周辺には草津、南草津、近江今津、近江塩津、西大津と「津」つく地名がたくさんあります。
さあ、ここからが大事です。面白仮説を出すには、この発見を自分に振り戻して、身近なところで新しい発見を見出すのです。僕が網野善彦さんの本で発見したのは、まとめると次のようなことでした。
「港を表す<津>というのは、商業都市として発展し、現在でも県庁所在地として生きている。津は港という本来的な意味は廃れても、現代には表記や音として<昔のおもかげ>が残っているのだ。」
では、僕が暮らす「浦和」という土地には何が潜んでいるのだろうか?
一度、自分ごとに振り戻して、発見をさらに膨らませてみようと思い立ちました。そこで僕はフィールドワークを決行しました。何よりも現場の一次情報に勝るものはないですからね。
浦和探検
大ヒット映画「翔んで埼玉」のエンディングに流れる、はなわさんの「埼玉県のうた」の歌詞にもあるように「どこまで歩いても海がない」海なし県として有名な埼玉県。今では県庁所在地は「さいたま市」ですが、十数年前は「浦和市」が県庁所在地でした。
ここで面白いことに気づきます。なんで海がない県なのに、県庁所在地に「浦」などという海の言葉が使われているのでしょうか?
そこで浦和周辺を歩いてみます。すると大変面白いことを発見しました。
浦和駅の住所を見ると「さいたま市浦和区高砂」となっています。高砂というのは読んで字のごとく、砂が高く盛り上がっている場所を指します。簡単に言ってしまえば「砂丘」のようなところですね。そして、その横の町の住所が「岸町」。水面から岸に上がり、砂丘を上がり、陸に到達する様が浮かんでくるようです。この岸町にある神社で有名なのが調神社です。これで「つきのみやじんじゃ」と読みます。
この神社は浦和の総本社として、多くの市民の方に親しまれている神社なのですが、面白いのが写真で見てもわかるように鳥居がないのです。神社の由緒によれば、その昔、租庸調の「調(=地域の特産物)」を納める倉があり、搬入の際に邪魔になるため鳥居を作らなかったと書いてあります。
さらに面白いのは、この神社、狛犬がいないで代わりに狛兎がいます。不思議ですよね。
なぜ、兎なのか。狛兎の神社は日本全国にいくつかあるのですが、その代表的なのが、大阪にある住吉大社です。住吉さんといえば、航海の神様で、船乗りの人たちが崇める神社として有名です。三井商船のような大きな貿易船での商売をしている方々は、住吉さんを崇拝していますね。
ここからは僕の仮説です。おそらく、「兎といえば月。夜に航海をする時に海を照らす月のシンボルである、兎をマスコットにしたのではないか?!」
住吉さんではないにせよ、航海の神様を祀っているのかもしれない、と思い、神社の周辺をくまなく探してみます。すると、やはりありました。金毘羅神社。四国の金毘羅さんですね。ここも航海の神様で、出雲の神様スサノオの息子、ニギハヤヒが御祭神と言われています。
海もないのに、浦和では航海の神様をひっそりと祀っている。なぜなんだろうか。さらなる不思議が湧き出てきます。そこで調神社を全て歩いて探検してみましょう。以下のような構造になっています。
本殿の奥に神池があり、そこに御鎮座しているのが稲荷神社です。しかし、よく見ると社殿には狐ではなく兎の彫り物が施されており、由緒を見るとこちらが昔本殿だったという説明がありました。これだけ兎が強調されると、さらにその理由が知りたくなります。僕が知っている限り、狛兎の神社が京都にあります。岡崎神社です。ここの神様はスサノオさん。出雲の親分ですね。ちなみに調神社の本殿の神様もスサノオさんがいます。そこで浮かんできた仮説がこれです。
いなばの白うさぎ。出雲の神様の本拠地にはマスコットとして兎が使われたのかもしれない。そして、出雲族は船を利用して、日本全国を回っていたのかもしれない。そして、その要所要所を抑えていたのだけれど、その1つが「つきのみや神社」だったのだろう。でも、奈良時代、出雲の勢力ではなく、ヤマト政権が日本全国を統治し、租庸調の徴収を行う際、もともと出雲族が使っていた本拠地の一つを調の倉を作り、ここから平城京へ運んだのだ。しかし、出雲痕跡を残したくなかったため、神社の名前を調神社に変えた。しかし、もともと「月の宮神社」と呼ばれていたから、そのまま音としては生き続けたのか。。。
これまでの面白仮説を整理するとこんな感じです。そこで家に帰り、ネットで調べてみると面白ことがわかりました。「縄文海進」という事実です。縄文時代、今から6000年ほど前、東京や埼玉県あたりは海の底だった、らしいのです。
ちょうど赤枠で囲ったところが「浦和」の近辺です。これをみると、浦和のあたりはリアス式海岸のように細かく小さな浦があったことがわかります。つまり、この浦が集まった場所を「浦和」と読んだのかもしれない、という仮説が浮かんできます。そうするとなると、この土地、この呼び名はかなり古いことになります。また、言えるのは、ヤマト政権よりも以前に出雲支配が関東一円では進んでいたのではないか、という仮説です。武蔵国一宮の氷川神社の御祭神はスサノオで、埼玉にある主要な神社の神さまはほとんどがスサノオさんなのです。
さて、いかがですか?
振り子打法でフィールドワークを行うと、こんな仮説が僕の頭の中から浮かんでは消え、また新たな仮説が湧いてきます。この振り子打法はいろいろなところに使えます。
これは大学院の時の論文ですが、フィリピンでカトリック教会が行なっているNGO活動を調べ、それを日本の浄土真宗に振り戻したら、どのような現代社会と宗教のあり方が見えてくるのか、を論じたものです。僕の方法は、このようにある事象の構造をフィールドワークでしっかりと理解し、その機能的価値を身近な対象に投射させることで見えてくるものをソリューションとしてまとめるものが多く、それをビジネスでも、歴史でも、あらゆるところに応用しているのです。