起|再び横浜のシルクセンターへ
先週の土曜日、関内駅に10時に市川さんと待ち合わせをし、横浜を歩いた。娘のスケジュールに合わせて一緒に家を出たので、1時間近く早く到着してしまった。そこで駅周辺をウロウロしていたのだが、改めて「関内(カンナイ)」って変な名前だなぁ、と思った。1つ前の駅名は桜木町駅。1つ後が石川町駅だ。両駅が地名なのに対して、関内というのは何を指しているのだろうか。
関内は”横浜の中心地”である。駅を降りた目の前に旧横浜市役所があり、目と鼻の先に横浜DeNAスタジアムがあり、少し歩くと神奈川県庁がある。山下公園まで来ると大桟橋が見えて、日本大通の右側は外国人居住区の痕跡が見られる。今は創価学会の持ち物になっているが、旧英国7番館(商館)が今も残っている。
その外国人居留区はペリー来航から整備された。掘割で仕切られて、橋には関所があったようだ。そこで「関の内側=外国人居留区」を「関内」と呼んだようである。ちょうど京都の街を「洛中」「洛外」と呼ぶのと似ているかもしれない。応仁の乱で乱れた街を修繕するために豊臣秀吉が土塁を築いて京都をコンパクトにし、その土塁の中を「洛中」、外を「洛外」と呼んだ。だから、掘割の外を関外と呼んでいたのではないだろうか。そんな妄想をしながら歩いていた。
さて、市川さんと合流して、僕らが向かったのはシルクセンターである。ここは開港当初イギリス商社のジャーディン・マセソン商会があったところで、英国一番館と呼ばれていた。その跡地に「横浜港における生糸・絹産業及び貿易の振興並びに観光事業の発展を目的とした施設」としてシルクセンターが建てられた。ここには世界の蚕の種類、シルクロードを経由した各地の絹織物、日本の絹織物の染色から加工品、はたまた蚕を利用した先端研究の紹介まで、蚕に関わるあらゆる情報が集約している。前回、八王子探究で鑓水商人が横浜の外国人商人と直接ビジネスをしていた発見から、僕と市川さんの中では、再度横浜を歩いて外国人商人とのつながりをさらに深めたいという思いがあった。そこで「西湖のゆるキャンプ」が落ち着いたタイミングで、再び横浜を訪れたというわけである。
承|シルクロードの本質視点
前回シルクセンターを訪れた時、僕と市川さんが惹かれたマップがある。それは「東北・関東・東山から横浜への絹の道」と題されたもので、関東甲信を中心に絹が横浜へどうつながっていたのかを陸路と水路の両面から描かれたものだった。
このマップを見ると、八王子が西は甲州街道、北は埼玉往還(飯能から寄居を経由して高崎につながる、現在の八高線ルート)のターミナルになっていて、海外への玄関である横浜へつながっていることがわかる。今の感覚ではなく、それこそシルクロードの終着点は奈良だから、奈良時代の感覚でこの地を捉えれば、武蔵國国府は府中のあたりにあったわけだから、八王子は首都に近い位置にあって、相模國と甲斐國の境に位置し、交易の交流点でもあり、軍事拠点としても重要な都市であることが理解できる。そういう視点から八王子に惹かれ、八王子の交易としてのシルクビジネスの拠点である鑓水を歩いたのだった。
しかし、今回は違った。まさに視点は世界に注がれて、教科書で誰もが見たことがあるユーラシア大陸を横断するシルクロードを改めて眺めることに熱中したのである。
教科書で有名なシルクロードはドイツの地理学者リヒトホーフェンが中央アジアを調査し、中国の長安から地中海沿岸の都市に至るまでの街道が古代絹を運んでいたことに因んで命名したものだ。しかし、シルクセンターで面白いのは、単に絹製品だけを扱っていない点にある。蚕そのもの種類や起源から紐解くのだ。蚕という昆虫の発祥はどうやら中国らしい。蚕の成虫は蛾だが、中国の蛾は小さく繭も小さい。品種改良がかなりされていると思うが、日本の蚕の眉は二回りくらい大きい。さて、蚕からできる生糸や絹は中国が発祥だとすれば、蚕そのものが中国から絹生産のために世界に伝播したと考えるのが筋だろう。面白いのは、世界中で生糸が生産され、絹製品が作られたことだ。シルクセンターで見た中で最も荒々しかったのがマダガスカルの絹製品である。教科書で覚えるだけの学習だと、リヒトホーフェンが命名したシルクロードは、単なる東西貿易路であり、そこではシルクが商人によって売買されていたという知識にすぎない。しかし、よくよく考えると、それ以前、蚕そのものが移動し、その土地土地で生糸を紡ぎ、機織り機が生まれ、独自の製品に昇華して行った長い時間があったはずである。
シルクロードは、世界史で習う世界4大文明を経由している。西はエジプトのアレクサンドリアであり、メソポタミアではバグダッドを経由し、インダスではタキシラ、ワッハーンへ、そして中央アジアのオアシス の道で東は長安(西安)を繋いでいる。紀元前から文明を反映させてきた土地を行き来していたシルクだが、実はそれ以前に、「蚕」そのものが移動していたわけで、さらにさらに昔に人類は衣食住の「衣」を発展させるために、カイコのグレート・ジャーニーがあったはずなのである。
転|天蚕という野生
今回のシルクセンターでの発見で強烈だったのは「天蚕(テンサン)」という自然の中でたくましく生きる貴重な蚕を見られたことだろう。天蚕は緑色のボディで、葉っぱはクワではなく、どんぐりの木の葉っぱやウバメガシやクヌギの葉を食べる。天蚕のつくる繭は緑色で、「繊維のダイヤモンド」と言われるくらい丈夫で美しいそうだ。
僕らが見慣れている蚕のボディは白くて細い。シルクセンターの蚕の説明文章は衝撃だった。
”蚕は長い間、人間に飼育、改良されたため、本来の野生の性質を失った特異な昆虫である。餌を探しまわることも飛ぶこともできない飼い慣らされた昆虫である”
なんということだろう。小学生の頃から見慣れていた蚕は自然では生きていけず、ただ、生糸の原料であるための繭を生み出すためだけに、ひたすら桑の葉を食べ続けるだけの存在なのだ。それに比べて、天蚕のたくましさは何だろう。
結|近代に飼い慣らされた蚕とヒト
実はこの蚕の説明文章を呼んだ時、蚕が日本の子供のように思えてならなかったのだ。日本の教育システムは明治以降、西洋近代に追いつけ追い越せを合言葉に、多くの優秀な学生を生み出すためにつくられた。僕らの頃は1教室50名の学生がいて、教科書を基本に基礎知識を覚える、マス教育が展開されてきた。そして、多くの課題が与えられ、より効率的に早く解が導ける人材を育成してきた。しかし、松岡正剛が指摘するように、20世紀には世界の主たる「主題」は出尽くしてしまい、21世紀は何を追い求めるべきか、わかりにくい時代になっている。一言で言えば、私たちは不確実な世界に生きているわけだ。
橘川幸夫によれば、明治から平成という時代は、西洋近代を追い求める物語だった。そして、その物語の起承転結が平成で終わったという。令和の時代は新しい時代の起承転結の「起」にあたる時代だという。確かに不確実な世界だし、だからこそ、新しい物語の「起」を創造する意識がないといけないだろう。
明治から始まった西洋近代を求める物語に対応したのが、近代教育だとすれば、私たちは新しい物語の「起」となる教育を考えなければならないだろう。しかし、これまでの教育議論は前の物語の延長で考える癖が抜けていないように思える。マス教育やスケールという言葉が象徴するような文脈に課題を適応させようともがいているように見える。新しい時代の「起」を生み出すには何が必要なのだろうか。
それの答えは「天蚕」なのではないだろうか。飼い慣らし効率的に生糸を生み出すのではなく、自分の行きたいところに移動でき、自然の葉を食べ、繊維のダイヤモンドと言われるような強い糸を生み出す天蚕の姿に新しい教育のヒントを感じるのは、僕だけであろうか。教室を飛び出し、自分の興味の湧いたテーマを吸収し、誰もが気づかなかった仮説を導く、たくましい学びを創造しないといけない。横浜のシルクセンターで、勢いよく葉っぱを食べる天蚕を見ながら、そんなことを考えていた。