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Feel℃ ってなんだろう?

Feel℃ Walk よもやま話(1)

· おっちゃん「みつかる」記録帳

なんとなく気になることを求めて、あてもなく歩く。それを私は Feel℃ Walk と名づけた。Field Work に引っ掛けた私の造語である。私は、主に子どもたちと、野や山やまちへ飛び出し、「フィールドワーク」によって学ぶ実践をずっと積み重ねてきた。しかし、その「フィールドワーク」は、調査目的が明確で、仮説を検証するためのものではなかった。むしろ、まず野へまちへ飛び出すこと自体に重きを置いていた。

やみくもに外に出て行ったところで無意味なのではと考える人が多いかもしれない。しかし、はっきりした意図も目的もなく一人で、あるいは、数人の仲間とともに歩き始めると「みつかる」のだ。特に仲間とワイワイ歩くときは、みんなの思いにあちこち引っ張られるので、歩くスピードは一人のときとは比べものにならないくらい遅くなる。そのうえ、自分一人だったら行かなかった方へ仲間のおかげで導かれ、みんなの思いに引きずられてあちこちさまようので「みつかる」ものの幅も広がる。こうして面白いモノに、場所に、人に、出来事に出「遇」ってしまうのだ。

あらかじめ意味を持って「みつける」のではなく、歩いてゆくうちに意味が「みつかる」。「みつかった」ちょっとした「点」がつながり「線」になり「面」になると、思いがけない「意味」が見えてくるのだ。意味が見える Field 内を虎視眈眈と探るのではなく、無意味に見える場に意味を見出す感度・感性が高まる。その感度・感性を Feel℃ と名づけた。

歩く場所= Field はどこでもいい。調べる甲斐のありそうな Field を選ぶ必要もなければ、大自然の広がるところでも、有名だったり、珍しかったりする何かがあるところである必要もない。身のまわりのなんの変哲もないところでよい。どんなField であれ、とりあえず歩いてみることで、フタをされ、眠っていた Feel℃ が目覚めるからである。大事なのは Feel℃を覚醒する体験なのである。

目覚める Feel℃ とは、端的に言えば「好奇心」であろう。もっとくだけた言い方をすれば「面白がる心」である。一見すると何もなさそうな「場」で、たまたま出「遇」ったモノ・コト・ヒトが「なんとなく」気になった。その「なんとなく」を「とりあえず」逃さずに拾ってみる。すると「あれ?もしかすると」という「妄想」が湧いてくる。この状態こそ Feel℃が動き始めた現れだ。

 

しかし、意味と目的にがんじがらめになっている日常では、「妄想」が湧いたとしても「無意味」と切って捨てるだろうし、そもそも目を向けることさえもせず黙殺であろう。好奇心=Feel℃ はスリープ状態になっている。

「妄想」は次から次へと生じる出来事によってさらに高まってゆく。決して出来事を探したわけではない。出「遇」う出来事に乗っかって、重ねて、妄想を広げてゆくだけだ。「面白がる」のが先か、目の前の出来事が「面白がらせる」のかはっきりしない。「相乗効果」によって、好奇心・面白がる心 = Feel℃ が高まるのである。

なんとなく歩き始めた。石ころがあった。蹴った。他の大きな石にたまたまぶつかってあっさり真っ二つに割れた。切れ味鋭く、石器の包丁になるかもと「妄想」した。しばらくぼーっと歩く。誰かが泥だんごみたいな石を見つけてきた。泥団子と石をつなげるなんて馬鹿馬鹿しくていいねと大笑いする。笑っていると江戸時代からあんこで有名な老舗と遭遇した。「俺たち持ってるねえ。泥団子からのあんこの団子だよ!」と意味もなく喜ぶ。そんなお気楽で、幸福そうな私たちを見て、お店のご主人が会話の中に入ってきてくれて、あんこについての面白い話を聞かせてくれる。しばらくあんこで盛り上がっていると近くで職人がのし餅を切っているではないか。切れ味鋭すぎず、だからと言ってなまくらでもない絶妙の切れ味の包丁があるのを間近で見る。するとまた誰かが「切れない包丁がこの石でできるんじゃない?」とさっき拾った石のことを思い出すしつつわけのわからない「妄想」を口にする。切れないならどうなる?つぶす?たたく?挽く?そんなことを話しているとご主人が代々使っている「石臼」を見せてくれる。石臼の不思議な構造を知る。今度、拾った石をいろいろ使って道具を作ってみる遊びをしようかと「妄想」する。「それいいねえ!」とさらに盛り上がる……(つづく)

一人で、あるいはみんなとワイワイ語りながら、だんだんと Feel℃ が高まってゆくというのはこんな感じである。「なんとなく」に「とりあえず」乗っかり、「ひたすら」膨らませ続けることに尽きる。

この「きっかけ」をつくるのが「外へ出て歩く」という行為である。だから Feel℃ Walk。でも、ずっと歩き続けなくても、もっと言うと、歩いてすぐ出「遇」った何かにはまってしまっ立ち止まって動かなくても、あれこれやってみて、妄想を膨らませているなら、十分に Walk している。

もちろん、そぞろ歩きをひたすら続けてゆくのが楽しいのは言うまでもない。私はふざけて「こっくりさん Walk」と呼んでいるが、気の向くまま足の向くまま複数人で歩くのも楽しい。誰かが明確に引っ張っているのでもなく、場に引きずられているような気もする不思議な Walk。どうしてこんな経路になったんだろう。でも、そのおかげで思わぬ「偶」がたくさん「みつかった」と盛り上がる。これもまた Feel℃ Walk の醍醐味だ。

私たち誰もが持っている面白がる Feel℃ を再び開く。解き放つ。まずはここからスタートなのではないだろうか。

大切なことは、歩いている時、何らかの傾向を見つけられるか調べてみようということだけだ。名前も学名も必要ない。必要なのはわずかな好奇心だけだ。

(トリスタン・グーリー『失われた、自然を読む力』)