小学校低学年の子どもたちが五、六人、東京から逗子へ遊びに来た。
いつものように Feel℃ Walk だ。
逗子の駅前の交差点を渡るとまず目に入るのは魚屋。駅前に大きな魚屋が構えているのも海に近い逗子ならではだろう。
「わあ魚いっぱい」
「私、生の魚食べられない」
「刺身うまいんだよね」
「目の透明なイカがいる」
「海近いかな?」
それぞれひとしきり魚を眺めては、素直な思いを好き勝手に口にしている。そこに互いの意思を疎通しようという思いはない。自分の Feel℃ に引っかかったモノ・コトをしゃべっているに過ぎない。
こうした子どもの無邪気な反応を見て、さらに子どもの好奇心を高めようと思う人も多いだろう。そう考える大人は、
「そうだね。たくさん魚がいるね。この魚はどこから来たのかな?何種類ぐらいいるだろう?どの魚がいちばん好き?」
と子どもに問いかけるかもしれない。子どもに寄り添ってコミュニケーションをとろうとする、よい働きかけに見えるだろう。
しかし、ジェネレーターとしての関わりは異なる。
ジェネレーターという「あり方」の面白さは、他者をジェネレートする以前に、自分がジェネレートするところにある。自分がジェネレートする場合、起点が自分である必要はない。他者に反応して自分がジェネレートするのもありだ。子ども「を」ジェネレートする以前に、子どもからジェネレートされることに身を任せるのがジェネレーターの「あり方」だ。
(やるな、子どもたち。たかが魚屋でこんなにそれぞれの好奇心を開いているではないか。こうして改めて並んでいる魚を見てみると結構面白いな……あれ?)
「イカだけじゃないぜ。こっちの魚も目が透明だ!魚の目っていろいろあるんだな。あれこの目の形、変だな」
このジェネレーターのつぶやきは、さっきの大人の問いかけとどこが違うか。ジェネレーターたる大人は、子ども「を」対象として見て、子ども「に」働きかけようという意識がない。子ども「から」ジェネレートされて気づいた自分の素の思いを口にしているだけだ。往々にしてこの発言は子どもからスルーされる。好き勝手に思いを口にしている子どもの発言と同類とみなされるからだ。
スルーされても気にすることはない。むしろこれで子どもたちと「仲間」になったと言える。「寄り添う」というより、子どもの言動に乗っかって、そこに自分の思いを重ねながらひたすら進む Feel℃ Walk の始まりだ。
魚屋から百メートルも離れていない亀岡八幡の境内に寄り道する。
「ねえ、前来た時、あそこの大きな木の周りに抱きついてみんなで手つないだよね」
「雨宿りした」
「何人だっけ」
「急に雨降ってきたんだよな」
「えっとね、○○と○○と○○と○○」
「あっ、○○もいたよ」
「五人だ!」
半年前も同じ道を通り、同じように寄り道をした。そのときの思い出がふわっと浮かびあがる。別になんてことはない思い出だ。
「アマテラスの話をしたら太陽が出てきたんだよね」
たまたま子どもたちが学校で読んでいた松谷みよ子の『日本の神話』のことを話していたら、にわか雨はやみ、雲間から太陽が現れた。それを「アマテラスが来た!」と大騒ぎしたのだ。
亀岡八幡の鳥居のすぐそばに京急新逗子駅の踏切がある。
「あのトゲトゲなんだろう?」
踏切の車道と歩道の境目にゴム製のトゲトゲが敷かれていたのをある子がみつけた。
「サメがたくさんいるみたい」
「確かにサメのヒレみたいな形だな」
「あれ積乱雲だ。僕ね雲が好きなんだ。北鎌倉は来たけど逗子は初めてだな」
「おばあちゃんの家。神武寺。神武寺どっちかな」
「今日はね雷が午後あるかもね」
なんというバラバラな会話。全員が語っているわけではなく、黙って歩いている子もいる。まるで統制されていない時間。それぞれが感じたままに過ごす時間。発見を語りたければ語る。それに乗っかりたければ乗っかる。全然、関係ないことを話題にしたければ、遠慮せずに語る。
それぞれのモノローグがないまぜになるかみ合わない対話が心地よい。
踏切を渡ってすぐの清水橋を渡らず、田越川沿いの細道に入る。
「あ、和風の橋が見える」
朱塗りで、昔風のデザインの橋、仲町橋が見える。
「ああ、魚の群れ!」
川の中をのぞきこんだ子が小魚の群れをみつける。
「スイミーみたいだ」
リアルスイミーとの遭「遇」だ。
「もしかしたらさ、こういうの見たから絵本にしたのかもね」
経験から物語は生まれる。経験と物語とテキストが結びつく瞬間は日常の時々刻々に転がっている。ぶらり歩き、歩いてたたずみ、神話を思い出し、絵本を思い出す。
「ああ鯉が逃げてくよ」
「スイミーと同じだ」
「でも、色の違う魚はいないよ」
なんてまあ明るい声が川沿いの道に響くことか。通りかがりのおじいさんが
「なんか見つけたのかい?」
「スイミーがいるんです」
「ああそう」
おじいさんはそのままゆるりと通り過ぎた。おじいさんにスイミーが通じたかどうかはどうでもいい。何気ない遭「遇」の連鎖。これが生活している時間。生活を通しての豊かな体験と言えるだろう。
「花びらが浮かんでいる。あれ花火」
と言葉遊び。
「桜キレイだね」
「鯉が近づいて来たよ」
「ああ、鯉の方に近づいてく」
「鯉逃げた!」
小魚の群れと鯉との戯れに桜の花びらもちらほらと。こうした情景ををじっと眺める「隙間時間」に浸る。
子どもたちは相変わらず川に夢中だ。全然、進まない。「歩」くという字は「少」し「止」まると書く。どんどん進むのではなくて、すぐに立ち止まるのが「歩」くということの本質だ。
「すごい。川光ってる」
「魚の群れ、分かれた!」
「川の流れがさっきと違う!」
「本当だ。さっきはさ、こっち向きじゃなくてあっち向きだったんだ」
魚だけでなく川の流れの変化に気づいた子がいる。
「この川、海のにおいする」
「魚のにおいだよね」
視覚だけでなく、嗅覚も働き始める。五感が自ずと動いている。
引き潮なのでかなり浅く、川岸近くに干上がった場所がある。
「土にボコボコ穴があいている」
「あしあとかな」
「おっちゃん、イノシシとかいる?」
確かに動物の足跡に見えるな。タヌキは昔からよく出没するが、最近、三浦半島でもイノシシが出るという話を聞く。
すると、
「カワセミ!」
えっ?しかし、その声を聞いた時はもういない。ああ、鳥逃した。残念……
でも相変わらず川の流れを眺めながらだらだら歩いていると、
「あーっ!」
水面を一直線で飛ぶエメラルド色の小さな鳥が目の前を超高速で通りすぎた。
みんなで顔を合わせる。
「見た!エメラルド色!」
「私は金色に見えた!」
「ああ今度も見逃した」
浅くなった川面に小魚がたくさんいるのでカワセミさんも大忙しでランチだ。
「こんどはトンビだ!」
上空をトンビが優雅に滑空している。
「トンビ怖いよう」
一人の子が怯えて泣き出す。
「大丈夫だから」
その子の両脇で女子二人が彼を慰める。しかし、そんなことには無頓着で、
「私のね友達、トンビにね、おにぎり持っていかれて指怪我したの」
となんの悪気もなく、トンビに襲われたときのエピソードを語り出す子もいる。泣き出した子はその話を聞いて固まる。
一応、ちょっとずつ前進しているが、ここまで駅からトータルでまだ数百メートルしか歩いていない。あっという間に一時間以上の時が過ぎている。歩数の何倍ものコトバをしゃべりまくる子どもたち。
「ジェネレーター」はそこに大人気なくからんでゆく。
「あ!あそこにあるの何だろう!」
自分の発見をとり逃さず、散りばめる。別に子どものことを考えてではない。自分が無性に楽しいからだ。コミュニケーションのためではない対話。意思疎通のためではない対話。ばらばらのようなお互いの「声」が、多彩な色あいを出して語られるのが心地いい。
同調する必要がない。一つの理解に到達する必要もない。それぞれがそれぞれのまま、心地よく、安心して居られる場が「ジェネレート」する。
「ここ桜山。桜どこだろう。ねえここ桜の山?」
ようやく山道に入る。20分もあれば着く場所に何倍もの時間をかけてたどり着く。尾根道を登って桜山一号墳の近くまでやってきた。視界が開けたのでふりかえると、富士山と江ノ島が見える。残念ながら頂上には雲がかかってしまっている。そこに花を植えたり、道を整備したりしているおじさんがいた。
「君たち下から登って来たのかい。今日、朝はね、こんなにキレイだったんだよ」
おじさんがスマホで富士山の写真を見せてくれる。いっせいに子どもたちはのぞきこむ。
「わあ、キレイ」
写真を眺めつつ、
「あの花なに?」
「チューリップじゃない?」
と語り出す。
「よくわかったねえ、もうそろそろだね。咲くとキレイだよ。おじさんと業者の人とで植えたんだ。2週間ぐらいしたらまた来てごらん」
「このムラサキの花キレイ」
「ああ、それはヒアシンスだよ」
そんな会話とは別に
「ここ何メーターぐらいの高さ?」
「高尾山は何メートルだっけ」
と語っている子もいる。
ひとしきりおじさんと語ってから出発。ちょっと進んでふりかえるとおじさんが手を振っている。
「ここね、えのふじ公園って名前にしようと思うんだ」
なるほど。江ノ島に富士山が見えるというシンプルな名前だ。
「いいんじゃない。その名前!」
一人の子が上から目線の返答。おじさんは苦笑しつつもうれしそうだ。子どもたちはおじさんに向かって大きく手をふる。
「ここ公園?」
桜山の頂上は、前方後円墳だ。平成になって発見されたもので、まだ十分調査しきれておらず、誰の墓かもわかっていない。古墳の周囲は現在整備中で、墳丘の上に茶色いシートが敷かれていた。
「古墳って王様の墓」
「ピラミッドみたいなもんか」
「お墓?怖い。おっちゃん先行って!」
「シートの下に何があるのかな?」
古墳の脇の杉の木が立ち並ぶ尾根道を歩く。すると上からなにやらひらひらと。桜の花びらだ。
「桜が降ってきた」
「どこにも桜の木ないよ」
確かに。大きな杉の木に囲まれていて桜の木は見当たらない。さすがにおっちゃんの俳心を抑えきれず、みんなに呼びかけてしまう。
「桜散るか。じゃあこの五文字入れて俳句でも作りますか」
「さくらちる……」
皆、いっせいに考え始める。するとある子が
「おっちゃん!できた!桜散る 春でも冬の山の中」
すごい。まさに雪のように舞い散る花吹雪の中を歩いている旅人の感じが出ている。するとおっちゃん、大きなシダの株を発見。
「ああ、シダの王冠を見つけたよ。ここは古墳。王様のお墓だからね。葉っぱの王冠か」
興奮して語るものの誰も聞いていない。みんな指を折りながら、騒がしく、ひたすら自分の五七五をつくり続けている。
「おっちゃんの葉っぱの王冠を使って……桜散る葉っぱの王冠……」
「桜散る古墳の王様……」
おっちゃんの発見したシダの王冠に影響されてつくり始めた子がいる。するとその傍らでこれまで黙っていた男の子が
「できた!」
と叫ぶ。どんなのができたの?とたずねると
「桜散る杉も高し鳥の声」
おお。杉の高い木立の上の方からハラハラ散る桜の花びらの映像に鳥の声という「聴覚」的要素を加えるとはすごい。2つの感覚の融合。異なる要素の組み合わせ。君は「俳」の心をつかんでいるじゃないか。
おっちゃん、うれしくなって「いいねえ!」とその子を抱きしめる。それを見て子どもたちは笑う。なんてゆるくて、あたたかいひとときであろうか。
再び、静かになり、みな頭を働かせながら歩いていると
「私もできた!桜散る杉の間の日差しかな」
素晴らしい!情景をそのまま素直に言葉にすればこんなにいい句になるんだ。
歩きながら俳句をつくり、できた時に語る。みんないっせいに発表しなくていい。急がない。切らない。
しばらくすると俳句以外のことに興味が向き始めるので、俳句を語る子が少なくなる。そんな時に、これまで全然、俳句を発表していなかった子が、
「おっちゃん、こんなのどう……」
とできた作品をひそやかに教えてくれる。それぞれの Feel℃ の高まりに応じて、ゆるやかに反応すればいい。こうした余裕と余白のある時間を過ごすのが Feel℃ Walk の真骨頂とも言える。だからこそ、一握りの子ではなく、どの子も、無理なく、自分の時間を過ごし、自分の発見を素直に語り、自己効力感が高まる。
あっという間に正午を過ぎている。もう二時間以上も歩いているではないか。桜山2号墳の絶景ポイントまであとわずか。そこでお弁当を食べよう。
しかしまあ、ここまでみんなよく語ったね。誰かの語りに巻き込まれ、
じゃあこんなのはどう?えっ、それがあるならこっちはどう?じゃあこんなのもひらめいた!
と、内容的には直接的つながりはないかもしれないが、誰かの「発見」に触発された対話が続いた。こうなると個人の発見=My Discovery の境界は見えない。My Discovery を語っているがそれは他者の発見=Your Discovery を反映している。しかし、Your Discovery そのままを真似して、同調したわけではない飛躍がある。だから立派な My Discovery なのである。
どこまでも My Discivery を自由に語り合いながらそぞろ歩く。歩きながら出「遇」う場が差し出すモノ・コトにその都度反応するだけ。場との関係だけなく、人との関係も同じ。無理に合わせようとしなくても、
「そうきたか!」
と相手に乗っかってもよし。
「別のことひらめいた!」
と関連性のないことに飛んでもいい。
けれど、その反応は、自分発だか相手発だか、はっきりしない。
「おれが最初に言ったんだ!」
という所有権にこだわる必要はない。
「こんなこと言っていいかな」
とおどおどする必要もない。
共に歩き、語っているうちに、なんだか知らないけれど元気になってきて、面白くなってくる。別に何も特別なことをしているわけではないのに。
ひたすらこの感覚に浸りつつ子どもとともに遊び、歩く。すると大人の好奇心も開かれる。大人も子どもも「好奇心」のおもむくまま戯れよう。互いにジェネレートし、ジェネレートされる関係が生まれるのが Feel℃ Walk。最高だ。
わたしたちは『私と同じようにやれ』と言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたちにとって唯一の教師は、わたしたちに対して『私と共にやりなさい』と言う者である(ドゥルーズ『差異と反復』)