昨年の九月。軽井沢で小学生とFeel℃ Walkした。その夜、一緒に歩いた仲間と中軽井沢で中華を食べながら雑談した。この時、来てくれた二人の出身地がともに佐久の中込だという話になった。
私は、その半年前に京都・太秦でたまたま出会った市川神社から「市川」という自分の苗字に関わる探究を始めていて、市川家のルーツを家系図でたどると佐久の望月であるということを話した。
中込も望月も佐久ということで佐久の話ですっかり盛り上がる。
「中込には松本の開智学校よりも早く建てられた中込学校があるんです。そこはぜひりきさんに見てもらいたいなあ」
洋風建築で、時計台でも鐘楼でもなく太鼓がぶら下がる「太鼓楼」が塔のように立つ校舎が現存していると言う。これはぜひ「市川探究」とともに中込を歩こう!ということでお開きになった。
私は、中込学校のことが気になって早速、佐久市のウェブページを調べてみた。建物の写真を見ると確かに有名な松本の開智学校とスタイルが似ている。これは素敵だと思った時、別の記述に目が留まった。この校舎を建てた大工の棟梁が市川代治郎という名前だったのだ。なんと、すぐに「市川」と紐づいてしまったのだ。
このことを知らせようと学校のことを教えてくれた仲間にメールすると、その仲間も、お父様と話をしたら、その方のご先祖と中込学校と市川代治郎とのつながりを語ってくれて、「あ、市川につ
ながる!」と驚いて今、メールしようと思っていたというメッセージが返ってきた。
こんな経緯があってずっと楽しみにしていた中込学校に市川代治郎を訪ねる旅がついに実現した。
駅からさほど遠くないところに中込学校はあった。
昨年の台風で中込地区では千曲川が氾濫すれすれまで増水。一部決壊して死者も出た。このときに破損した校舎の修復工事がいまだ続いていた。
校舎に入ると、教室は展示室となっていて、学校で使われた教科書とともに、明治八年に市川代治郎が学校の設計・建築を請負った時の書面や設計図などの資料があった。
市川代治郎は中込の裕福な名主の家に生まれた。青年期に大工を志し、隣村に住む、由緒ある神社仏閣を建てた棟梁に弟子入りした。安政年間に築地本願寺を建てている時、師匠である棟梁が亡くなり、代治郎は棟梁を引き継いで工事を完成。その後、日本に駐留していたアメリカ人に雇われ、明治二年に44歳で渡米。約五年間、当時の西洋の建築術の研鑽を積み、48歳になって戻ってきて、中込学校の設計と建築を任されたのだ。
請負書面に書かれた
諸式私共御請負致す
の直筆の文字を見て、代治郎のフォースを感じ、請負設計人の棟梁にジェネレーターっぽさを感じた。
決して、学術的に設計も建築も学んだわけではなく、常につくる現場に没入し、数々の技を身につけてきた代治郎は、西洋式の学校建築も、これからの教育制度もプロとしてわかっていたわけではない。幼なじみの地元の大工「仲間」とともに、それぞれの強みを生かし、つくった経験もなく、わからないことだらけのことに挑戦していったのである。これぞ「つくりながら学ぶ」の先駆者だ。
代治郎のことについて「路上観察学」でも知られる建築家の藤森照信さんが、信濃毎日新聞に寄稿した記事が展示されていて、書かれていた内容がとても興味深かった。
この時期、日本各地の名棟梁たちが、相次いで擬洋風の校舎を建て、今でも保存されているところは数々あるが、代治郎の建てた中込学校だけは本場で見たからこそ他とは違う建て方をしているというのだ。
他の地域の棟梁は東京や横浜の洋館を半日ほど見て外観だけは「らしく」作っている。しかし、中込学校は、中央に細長い塔があったり、教室が玄関から横長に伸びるのではなく縦長に伸びていたり、玄関入ってすぐのところに「児童控え室」があったりする。これはすべて当時のアメリカの開拓地の学校の特徴なのだそうだ。
「棟梁、なんで玄関すぐの両脇に部屋をつくるんだろう」
「わかんねえけどアメリカではそうだったんでとりあえずつくっといたほうがいいと思ってなあ」
「そうかい」
なんて感じでつくっていたのではないかと藤森さんは妄想していた。
なんとなく感じとったことを精一杯カタチにしてみるアマチュアのパワーこそ、閉塞して縮みこんで動けなくなっている今、改めて見直してもいいように思う。「やってみなはれ」だ。
この後、代治郎は、板橋と戸田の間の荒川にかける橋のデザインとして当時の最先端であった近代吊り橋を東京府に提案。願書を出した。そのためにもう一度サクラメントに近代吊り橋のことを学びに行かせてくれと言っている。
設計デザインを見て、その近代性と斬新さに目を引く。この頃、ようやくイギリスで近代的吊り橋が作られ始めた。ニューヨークにブルックリンブリッジはなく、もちろんサンフランシスコにゴールデンゲートブリッジはない。藤森さんによれば、戸田橋の設計図の斜張材の張り方、アンカーの入れ方など細かいところまで本式だと言う。
この代治郎の提案は却下され、再び渡米することはなかった。この後、名古屋で石鹸工場をつくり、成功したものの濃尾地震で被害にあい、すべてを失う。その後、和歌山に行き、みかん酒の製造や花崗岩の加工に従事。明治29年(1896年)に71歳で多動、多彩な人生の幕を閉じた。
中込学校の隣にある資料館に、山車のようなものがあった。それは中込学校を建設する前に、生まれ故郷の中込・石神地区に代治郎が寄贈した祭り屋台だった。分解されて綺麗に保存されていたため今でも新品同様に美しい。車と飾りには白ペンキ。組子は漆塗り。屋根には障子がはめられ、太鼓がぶら下がっている。どこか愉快な屋台である。
この地に伝わる踊り念仏は太鼓を叩き、鐘を鳴らして念仏を唱える。学校の上に太鼓楼をつくったのも、祭り屋台の太鼓と同じように、この土地に根ざす響きを伝えようという遊び心だったかもしれない。
太鼓楼の天井には、地図が描かれており、学校を中心に東西南北にそびえる山々、その向こうに日本や世界にどんな都市があるかが示されている。見えない世界に夢を馳せるのは、まさに代治郎の生き方そのものと言えよう。
どこか能天気な感じもあり、どこか一途で純粋。明るく生きてはいるが決して恵まれているわけでもない。流れの中で「請負」ながらその場その場で「仲間」と精一杯何かをつくって生きる。やはり市川代治郎は、ジェネレーターシップを教えてくれる存在だった。