「なんとなく気になるモノ・コト・ヒトを追い求めてあてもなく歩き出す」
Feel℃ Walk の作法はそれだけと言っても過言ではない。
Feel℃ Walk したい場所を決める場合は、どの駅で降りるとか、どの辺りを歩いてみるとか、行ってみたい場所を一つ選んでおくとか、ゆるい決め方にとどめておく。あらかじめガイドブックを読み込んだり、ネットや雑誌などで事前情報を集めて予習してはならない。
Feel℃ Walk の当日、歩こうと決めた範囲の最寄駅に降り立ったら、その時初めて、駅前に設置してある地図を見る。それを眺めて「なんとなく気になる」方向に歩き始めればいい。行きたいところがあったとしても、「だいたいこっちの方かな?」という「カン」を頼りにする。グーグルマップとかで確かめながら進まない。今、どこにいて、行きたいところに向かってどう進めばよいのか確認したければ、ところどころでたまたま出くわす地図・案内図を利用するしかない。もちろん都合よく地図が出てくるとは限らない。そんな時は、周囲をよく眺めて、どっちに進んだらよさそうか判断するのを楽しもう。迷ったら迷ったとき。ぐるぐる同じ場所をめぐったり、遠回りをすることで、面白いモノ・コト・ヒトに出「遇」える。迷うときもあれば、なんとなく向かったにもかかわらず、バッチリ着いてしまうこともある。見えないフォースに引き寄せられている感じを存分に味わうからこそ、 Feel ℃ が研ぎ澄まされてゆく。
スマホを見ながら歩いたり、情報をググったりするのは御法度。耳にイヤホンをつけて音楽を聞きながら歩くのは論外。せっかく目前に面白いモノ・コト・ヒトがあふれる野山やまちがあるのだから、そこに没入する。あちこち眺め、聞こえてくる音に耳を澄まし、漂う香りに引き寄せられ、木や葉っぱや土や石など気になる事物に手を触れてみよう。お腹がすいてもなかなかお店に出「遇」わないこともあるだろう。昼飯抜きになってしまったとしても、その後、みんなで食べる夕飯の味は格別なものになるだろう。
気になるモノ・コト・ヒトを発見すると、ウィキ先生に教えてもらったり、ググったりして調べたくなる。でも、それは Feel℃ Walk を終えて家に帰るまで我慢。まずは、ひたすら「みつかった」モノ・コト・ヒトを、五感を総動員して観察し、ちょっとした、しょうもない思いつき、小さな感動を素直に語り合おう。こうして出てきた言葉は、一期一会でジェネレートした大切な宝物。忘れずに記録するためにスマホのメモ機能を利用するのはOKだ。
知識・情報は完全にシャットアウトしないといけないかと言えばそんなことはない。ネットに頼らなくても、歩いていれば現地に埋め込まれている知識・情報に出「遇」う。まち・野・山の中には、その土地の歴史・人物について書かれた掲示板や植物・動物・地質などの解説板が設置してあるからだ。ネットで調べるのに慣れてしまった私たちは、アナログの掲示板を軽視しがちだが、こうした案内・解説表示に出くわしたら、必ず立ち止まってじっくり読もう。その土地を知る上でポイントとなる重要な情報がうまくまとめられていて、多くのことを学ぶことができる。
なるほど、この土地にはこんな歴史があったのか……
なるほど、この土地にはこんな獣や鳥が住み、こんな花や木が生えているのか……
なるほど、この土地の風景にはこんな特徴があったのか……
ということを、今、自分がいる場所の出来事として実感する。そのきっかけを作ったのは、しゃべることもなく静かに立ち続けている「板」だ。人工物に誘われて、周囲の風景を見つめなおす機会をもらったわけだ。
自分が気になったモノ・コトをその都度ネットで調べた方が、主体的に情報を選び、知識を着実に積み上げているように思えるかもしれない。しかし、それは自分の求めるモノ・コトの枠から出られないことの裏返しかもしれない。
Feel℃ が高まるというのは、日常生活の中でどんどん固まりつつある自分の「枠」から飛び出すこと。そう考えると、
(こんな情報もありますよ)
と期せずして差し出される情報に乗っかってみるのは、自分の世界を広げるチャンスになる。
雑木林にひきつけられ、木ばかり見て歩いていたところ、こんな解説表示に出くわした。
(地層と分布?今、おれは木に関心があるんだから地層は関係ないや)
と思うのではなく、
(あれ?ここは地層に特徴があるの?)
と関心を広げる。面白がる好奇心の発動である。すると、近くに下の写真のような崖面が「みつかる」。
崖面には泥でも小石でも岩でもない砂の厚い層が広がっている。触ってみるとサラサラの砂山のようだ。
さっきの解説図をもう一度見直すと「平山層」と呼ばれる「砂」の層だとわかる。
丘陵の地層の最上部は富士山などの火山の噴火で堆積した火山灰がつくりあげた関東ローム層。その下の層は、太古の相模川が作り出した礫の層。ここまでが50万年前から作り出された地質。今、目の前にあるのはそのさらに下の層。約250万年前、海底に沈んでいた時に堆積した「砂」の層が、土地の隆起によって出現したのがこの砂の層なのだ。
(生身の人間のスケールと能力では出「遇」えないはずの、時間的にも空間的にも大きく隔たったモノを、今、直に手を触れているのだ……)
ちょっとしたハイキングコースの片隅に静かに潜む大自然の歴史にふるえる。Feel℃は一気に高まる。
こうした案内・解説板には、ネットでは拾えないような貴重な情報が書かれていることがある。自治体などによって設置されたオフィシャルなものではなく、その地域に住む個人や団体が立てたもので、「異論」もあるような「俗説」が堂々と書かれていたりする。
しかし、それを「客観的事実」ではないと簡単に切り捨てることはできない。実はその土地にまつわる「真実」を明らかにしている可能性がある。覆い隠されたはずの歴史が、消えることなくひょっこり顔を出しているかもしれないのだ。
こうした解説表示は、名所ではない、うっかりすると見過ごしてしまうようなところにひっそり建てられている。にもかかわらず Feel℃ が高まっていると、地霊の導きを「なんとなく」感じとってその場所に引き寄せられてしまう。
下の写真は、まさにそうした引き寄せで出「遇」った事例。京都へ仕事の打ち合わせに出かけた時の「隙間時間」にあてもなく太秦近辺を歩いた時にたまたま出「遇」った「市川神社」の由緒を書いた「板」だ。
手書きで、誰が書いたかも明らかにされていない。よく読むと、いろいろな資料のつぎはぎで、統一された文章になっておらず、結局、市川神社の創建の由来も、歴史もはっきりしない。解説としての体をなしていないのだが、断片情報を読み解く中で、「市川」とは「川に面した市場」ではなく「神を斎(いつき)する川辺=斎(いつき)川」ではないかという「仮説」が思い浮かんだ。この「仮説」を元に、ただのルーツ探しではない「市川探究」が始まった(注:この探究については「探研移動小学校のウェブを参照 http://tqnology.mystrikingly.com/blog/58290c22338 )。
先ほど、思いつきメモを記録するためにスマホを使用するのはありと言ったが、もう一つ、Feel℃ Walk 中にスマホを使ってよいのは、カメラとして用いる場合だ。案内・解説表示は貴重な資料として撮影しておくべきだし、面白いモノ・コト・ヒトが「みつかった」ときも旅の記録として残すために写真を撮る。
さて、 Feel℃ Walk は目的地が明確でないので、終わりは「時刻」で決める。日没までとしてもいいし、何時までと決めてもいい。その時間が来たら、すっぱりと終わりにする。
当初行こうと決めていた場所に到達しないで時間切れになるときもあるだろうが、それで構わない。一度ですべてを網羅するという発想を捨てることが重要だ。すべては「一期一会」。そのときに引っかかったものがあれば、引っかからないものだってある。「偶」発的な出「遇」いによってジェネレートした一「隅」を大事にする。「ぐう」の世界に身を委ねるのだ。
家に戻って調べた時に、
「ああ、どうしてそばを通ったのに行かなかったのか……」
と後悔するのではなく、自分の関心や Feel ℃では引っかからなかった訳があったんだなと思う。そこへ行けなかったことがどうしても残念でならないなら改めて訪れればよい。
二度目に訪れる場合は、自分ひとりだけで歩いてみてもいい。個人的に気になったところを再び歩いて深めたり、前回、行けなかったところへ出向く。この場合は、ルートを決めて歩くのも面白い。
一度、Feel℃ Walk した後に、同じエリア、同じ場所を訪れると観察力が上がる。前回、見逃していたことに気づくので、人間の認識力とはつくづく不思議だと思う。調べて、知識を得て、見つめなおしているせいもあるだろう。「なんとなく」とは異なる、ちょっとだけ Focus された Feel℃が働く感じと言えよう。
二度訪れて、さらに「仮説」が深まった場合、三回目の Feel℃ Walk に旅立つ。ようやく図書館や郷土資料館、博物館を訪れて資料を収集したり、専門家に会ったり、地元の人に聞き込みをしたり、いよいよリサーチめいたことを始めてみる。
なんともまどろっこしい。最初からリサーチすれば能率的ではないかという声も聞こえてきそうだが、「なんとなく」始まった Feel℃ Walk を経るからこそ、予定調和ではない、思わぬ「仮説」が「みつかる」。Feel℃ を高めるために、まず硬直した感性をゆるめ、ひらく。自分の思い込みと日々の慣習にからめとられた認識を外すための最初の Walk こそ実は一番重要なのだ。
二度目、三度目と知識と理解が深まるにつれて、調べたいことばかりに Focus しがちになる。しかし、そんな時も「隙間時間」をしっかり設けて、あてもなく歩き、みつける余裕を持つことを忘れない。直接調べたいこととは関係ないモノ・コト・ヒトについての情報も集める。こうした「雑」情報を「愚」直に集め続けることで、自分ならではの「妄想=面白仮説」が豊かに育つ。
長々と語ってきたが、大事なことは冒頭の一行。
「なんとなく気になるモノ・コト・ヒトを追い求めてあてもなく歩き出す」
ということに尽きる。面白がる心を全開にしてひたすら歩こう!
偶然とは何か。それは第一に、あることもないこともできるものである。第二に、何かと何かが遇うことである。第三に、稀にしかないことである。このように論じたのは、哲学者の九鬼周造である。……(中略)……目の前の何気ない事物を、あることもないこともできた偶然として発見するとき、人は驚きとともに「ありがたい」と感じる。「いま(present)」が、あるがままで「贈り物(present)」だと実感するのは、このような瞬間である。
(森田真生『数学の贈り物』)