中込学校で市川代治郎のことについて知り、ゆったり昼食を食べた後、踊り念仏の西方寺へ行こうとする道すがら。ぴんころサンタ地蔵があった薬師寺を出たところに
市川又三像 100m
という看板が立っていた。突然、ここまでノーマークの「市川」が飛び込んできた。
道草はイレギュラーに出「遇」うモノ・コト・ヒトに対して感覚が開いているからできる。目的地へ行くのがすべてで、移動の時間を減らした方がいいという余白のない心では道草はできない。
雑を集め、ゆるりと意味を編んでゆくためには、道草・寄り道によって、常に揺さぶられ、熟成してゆく必要がある。半日Feel℃ Walk してくると、だんだんその日のテーマ、そしてこれからのテーマがおぼろげながら浮かんでくる。頭の中の「雑」が醸されて、Ferment Walk(発酵しつつ歩む)が始まる。
中込・野沢の中心にある伴野城址の北側に残る土塁の向こうは住宅地になっている。その一画の空き地に市川又三の像があった。
この像をよく見ると手に何か持っている。曲尺のようだ。傍にある解説板を読むと、今も使われている曲尺の「尺度」を統一するために明治新政府へ「建白書」を出したのが市川又三だった。
「建白書」は「五箇条の御誓文」の「万機公論に決すべし(=世の中のいろいろな物事は国民の意見を聞いて決めましょう)」という方針に従って生まれた制度だ。街の中に高札が立てられ、そこには「お国の為になるなら老若男女貴賎に関わらず誰でも忌憚のない意見を言える」と書かれた。市民が政府に対してこうしたらいい!こうしてほしい!と提案するためにまとめたレポートが建白書だった。
「こりゃあ素晴らしい」
と意気に感じて、市川又三とその仲間たちは、それまで全国バラバラで不都合が生じていたモノサシの「長さ」を統一しようという建白書を書いたのだ。又三の像が手にしている曲尺は「長さの基準探究」の結果生み出した「自作の曲尺」だった。
建白書の代表として社会・歴史の授業で習うのは、自由民権運動で板垣退助たちが出した「民撰議院設立建白書」(テストの時漢字で書くのに苦労するw)。しかし、板垣のような下野した政治家たちが現政府にもの申す「プロ」の建白書ではなく、明治に時代が移り、「平民」と呼ばれるようになった農民・町人のような市井の「アマチュア」が、新しい世の中づくりのための「提案書」として出した「建白書」があった。全国各地で平民たちは多数の建白書を書いたが、その中のひとりが又三だった。
このことを後世に語り継ぎ、私たち、そして私たち以降の世代にも何かをつくりだすために思いきって行動してみようという勇気を与えるために、令和も目前の平成三十年、又三の末裔の市川悦雄さんたちが建てたのがこの銅像だった。
思わぬ「市川探究」の広がりとともに、逗子の自宅に戻る。又三について早速ググって調べてみると、国立国会図書館のデジタル論文アーカイブにある「計量史研究」というマニアックな学術雑誌に掲載された市川又三の建白書についての論文がヒットした。それを読むと、2005年にNHKスペシャルで放映された「明治」という4回シリーズのドキュメンタリーの中で又三のことが取り上げられていると書いてあった。NHKオンデマンドを調べると、今も視聴できる。
NHKスペシャル「明治」第4集 国のありかたをどう決めるか?
まずはこれを見るしかない!と思い、すぐ視聴することにした。このドキュメンタリー自体は「建白書」を出した明治人にフォーカスを当てたものだが、その代表として又三のことを取り上げていた。そして、銅像を建てた市川悦雄さんがいきなり画面に登場した。
又三たちは、「仲間」を募って全世界の百にも及ぶ尺度の単位を調べ上げ、基準となる「一尺」の長さを確定し、モノサシの設計図まで書いた。
特に印象に残ったシーンは、決して専門家ではなく「アマチュア」であるにも関わらず、思い立ったら仲間たちとそこから学び、つくる決意を書いた一文だった。
「知識の乏しい私たちですが刻苦勉励して「尺度の根本」を調査しました」
これは代治郎たちが洋風建築の中込学校をつくったときの大工「仲間」と同じではないか。ほぼ同時期に、同じ場所で、それぞれがそれぞれの「仲間」と何かを企みつくろうとしていた。おそらくお互いのやっていることは耳に入っていただろうが、特に協力するわけでもなく、ただ
「やつも面白いことやっているな」
と共鳴しあっていたに違いない。これもまたジェネレーターシップの「Co」ラボのあり方だと思った。
佐久市のホームページに掲載されている「佐久の先人たち」に取り上げられている部分を読むと、そもそも「尺度の統一が必要だ」と思い立ったきっかけは、又三の弟が小諸の呉服商の養子となり、布を売る場合も買いつける場合も「長さ」が地域や人によってバラバラで苦労しているのを知ったからだとわかった。始まりは、大きなビジョンでもなんでもなく、ちょっとした身近な困り事だったのだ。
しかし、仲間と調査を進めてゆくにつれて、商売においても、土地の測量においても、私欲を満たそうとする人たちが自分本位に尺度を悪用して、市井の人々の生活が乱されることはよくないという義侠心にも火がついてきたのだった。
我を忘れて、私欲を超えて、みんなのためにしたくなる
それは世の中への反骨精神でもあるし、本質を追究したいという好奇心でもある。「誰かのため」と「面白い」が融合しているのもジェネレーターシップと言えるだろう。
建白書を提出するために何度も東京まで出向く。当時は鉄道がないので片道五、六日かけて上京。そのうえ建白書説明の呼び出しまで一ヶ月も待機しないといけなかったと言う。「つら楽しい」の極みだ。私財をなげうってなんのもうけにもならないことに没入した結果、もともとは室町時代から続く裕福な家柄だったにも関わらず家計を傾かせてしまった。
又三の家は中込より少し北の岩村田にあった。又三は長男であったが、建白書の活動に精力を傾けるため家督は弟に譲ってしまい、野沢にある実家に帰っていた妻のもとへ転がり込んだと言う。銅像が中込の野沢に建てられたのはそうした事情もあったからだろう。
親戚たちに又三は自分のしていることを伝えていなかったらしく、「又三は東京の相場に手を出し没落した」と代々子孫は聞いていた。しかし、1986年に東京経済大学の牧村憲夫さんが「建白書研究」で市川又三について調べ、その結果、国家の尺度統一に大きく影響を与えたとして業績が評価されるようになった。又三が亡くなって約八十年。建白書提出から百年以上の月日が経っていた。
大工の代治郎に曲尺の又三。東京府に吊り橋の建設を提案し、政府に尺度統一の建白書を出す。請け負ったことには私財をなげうっても没入するメンタリティ。自分の名を残すことへの驚くほどの無関心さ。この共通性は、人としての「個」性ももちろんあるだろうが、時代・土地の中に潜むフォースが駆り立てているとしか思えない。
中込Feel℃ Walkは、ジェネレーターシップ先人と出「遇」い、改めて令和時代の「創造社会」でのジェネレーターシップを考えるたくさんの題材をもらうものとなった。
こうして集まった「雑」が呼応して、発酵する Ferment Walk が続く。