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Feel℃ Walk 実況中継(1)

あてもなく歩くと「偶」に当たる 佐久・中込編

· おっちゃん「みつかる」記録帳

佐久・中込 Feel℃ Walk は小海線中込駅前からスタートした。今回は、松本の開智学校よりも先に建築された中込学校を見に行くことと、それを建てた大工の棟梁・市川代治郎について知るのがメインだった。

とはいえ、駅に降り立ったら駅前の地図を見よ!

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というのが Feel℃ Walker の鉄則。そこに気になるところを発見。

西方寺・踊り念仏

とあるではないか。

実は、つい一ヶ月ほど前、「みつかる+わかる」の四人の理事と大船から北鎌倉まで歩いた。そのときに光照寺という時宗のお寺に行った。このお寺は、時宗の祖である一遍上人が鎌倉入りを拒絶されて野宿をした場所に建てられたといういわくがある。さらに江戸時代につくられた山門は「クルス門」と呼ばれ、お寺なのにキリスト教の紋様が掲げられている。「クルス」とは「キリスト・クリスチャン」のことで、江戸時代に潜伏キリシタンをかくまったと言い伝えられている(実際にそうした事実が書かれた文献があるらしい)。

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いつものように、面白いねえとワイワイやっていると、必ず「関係者」にたまたま出会ってしまうのも Feel℃ Walk ならではのこと。本堂裏手に円覚寺の山を望む墓地があり、そこを掃除していたご住職の奥様と思われる方が私たちに話しかけてくれた。

「実際ね、由比ヶ浜で一人だけ処刑された人がいるという文献があるらしいんだけど、ここに逃げ込んだことがわかっても黙認されていたようです。そもそもね、一遍さんの時宗自体が、どんな宗派でも構わないし、受け入れるという発想ですからね。南無阿弥陀仏と一回でも唱えれば、それで極楽にゆけると教えたわけだから」

ニコニコと穏やかな顔で気さくに語りかけてくれる。

「一遍」唱えればいい だから「いっぺん」

ばらばらをひとつの普「遍」のつながりにするから「一遍」

「そう考えると、なんでも面白がって雑を受け入れるところや、「捨聖」として、妙なこだわりを捨て、我を忘れて、何かを感じ、受けとめるところはジェネレーターそのものだ」

と、「みつかる+わかる」の四人のおバカ男子理事たちは大盛り上がりをしたのだった。

私は、大学に入ったばかりの頃、父親から「これは面白いぞ」と渡された栗田勇さん著の『一遍上人 旅の思索者』を読んで以来、なんとなく一遍の生き方にひかれていた。

数年前に藤沢・遊行寺、神奈川県立博物館、金沢文庫を会場として、国宝の一遍聖絵の絵巻物・全12巻を大公開したときに馳せ参じた。この長大な絵巻は、一遍の幼少時代から苦悩する青年期、出家して修行の時代、仏道に開眼、踊り念仏の誕生、そしてその死までを丹念に追いかけたものである。

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絵画としての完成度も高く、彩色豊かで、その場で起きている出来事がありありと伝わってくるリアルな描写に引き込まれた。その絵の中に、諸国を遊行する一遍上人とその仲間たちが、踊り念仏を始めたときの絵があった。十人以上の僧侶たちが念仏を唱えながら輪になって踊っているのを周囲の村人たちが面白そうに眺めている。

そう言えば……この絵に描かれた場所が佐久だったような……というおぼろげな記憶が駅前の地図から呼びおこされたのだった。

これは西方寺に行ってみるしかない。レストラン「あーはらヘった」で最高のとんかつを食べて腹ごしらえし、

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「サンタが地蔵でやってきた!」の「ぴんころ地蔵」で「なんでもあり」の気風を感じた後、

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遠くに浅間を始め信州の山々を見通す田畑の広がる道を進んだ。しかし、工場が見えたり、ショッピングモールが見えたり、普通の住宅があったり、なかなかお寺らしいものが見えない。

ようやく屋敷森のような風景が現れ、木の合間から本堂の屋根と思しきものが見えた。山門には西方寺の表札があったのでここで間違いない。

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ところが境内に入っても、一遍が訪れたとも、踊り念仏に由緒のある場所とも一切書かれていない。

境内を歩きまわっているとお寺の倉庫の傍に看板を発見。

重要無形文化財・跡部踊り念仏例会会場

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と書いてあった。やはりここが「踊り念仏」に関わる場所であることは間違いない。

ますます気になってきた。私たちが山門を入ってすぐ、お寺の方と思われる方が本堂の隣の家に入って行ったので今、どなたかがいらっしゃるのはわかっていた。ちょうど参道に面した居間にその方がいて、私たちと目があい、その方が居間のサッシを開けてくださったので、

「実は、踊り念仏のことでちょっとここを訪れまして、私の記憶が確かなら、佐久で踊り念仏を始めたという聖絵を見たことがあるのですが……」

と言った。すると

「ちょっと待って」

と改めて玄関からこちらまで出てきてくれた。ご住職だった。

「うちの寺は浄土宗で、時宗じゃないし、そもそも信州にはほとんど時宗の寺院はなくて、その一つが佐久の金台寺なんだけど、もともと法然さんの孫弟子ということで言えばつながっているわけだからうちで踊り念仏を伝えているわけです」

なるほど。宗派を超えるつながりがあったっていいじゃないかというマインドがこの地にはあった。江戸時代、絵巻を保存する時宗のお寺があるのに、仲間が踊りを修行し、みんなに披露する場所は曹洞宗のお寺の常林寺というお寺だったそうだ。そう考えてくると、クルス門があるぐらいなんだから、ぴんころサンタ地蔵があったってたいしたことはない。

絵巻に描かれた場所について尋ねると、まさにこのあたりで間違いないそうだ。ぴんころ地蔵から西方寺のある一帯は「伴野庄(とものしょう)」と呼ばれていて(注:聖絵には「伴野の市庭(いちば)」で踊り念仏をしたと書かれている。市庭とは市場で、村人が集まるところと思われる。聖絵の写真を見てもらえばわかると思うが、在家信者の村人の家の庭で一遍たちが踊っている)、さらにこの絵の場所が西方寺のある跡部という集落だと推定されているそうだ。

「西方寺自体は三百年前に建てられたものでね、一遍さんがここにきたのは1279年で七百年も前だから、その頃にはこのお寺はないんですよ」

なるほど。田畑の広がるなんてことはない民家の片隅で踊り始めたのであり、この寺が一遍の踊り念仏発祥の地とは言えない。ただ、一遍がいなくなり、さらには時宗自体が決して宗派としての拡張に成功したわけでもないのに、村人たちに四百年も受け継がれ、その踊りが西方寺に伝わったうえに、さらにそれから三百年たった今も、踊り念仏が伝承されているということの方が驚きではないか。

「盆踊りの原点は踊り念仏と言われているし、沖縄の剣舞ともつながりがあるみたいですしね」

ご住職は私たちに踊り念仏のパンフレットをくださったが、そこにはこう書かれていた。

「自然発生的なものだったらしい踊り念仏を一遍上人は以後布教にとりいれ、のち奥羽・関東・東海・関西など各地で遊行(布教)をつづけていった。だが、このあと室町・戦国時代を通じて佐久地方には史料がまったくなく、時宗の布教のようすや踊り念仏のもようなどを跡づけることはできない」

なんとますますジェネレーターっぽくなってきた。踊り念仏自体が、自然に「発生=生成=ジェネレート」してしまったものだし、誰が始めたとか、何が規範だとかは関係なく、「場」に合わせてつくり変えられていった。それがいまだに続いている。

「今ね、跡部に続いている踊り念仏を世界遺産にしようと知事さんたちは動いているんだけど、私はちょっとね反対なんだよね」

讃岐の伝承の踊りを「世界遺産」として申請しようとしたが、一つだけだと弱いとユネスコに却下されたので、「日本に残る伝承の踊り」として再申請するために、踊り念仏もそのひとつとして入れようということのようだ。

しかし、そんなことをして形骸化して「残す」のではなく、文化風土として形を変えながら人の「くらし」の中に「残る」ことに目を向けようというご住職のスタンスはジェネレーター的だ。

ちょっと安っぽく見えて、軽薄なノリにすら感じる「ぴんころ地蔵サンタ」の方が、違いを超えてみんなで祈ろうという「踊り念仏」の精神が宿っているように思う。こうした日常のちょっとしたことを感じとることこそジェネレーターシップだ。

目立たずに、ちょっとしたことを面白がる。個人の名前を「残す」ことよりも「仲間」と幸せを願い、祈るくらしを自らつくり続ける。その流れが綿々と受け継がれてゆけばいいのだ。

パンフレットには江戸時代に「念仏仲間」というのがあったとも書かれていた。小さくて、弱いながらも、ゆるくつながって、なにかあったら「請け負う仲間」。むしろコロナ以後の今こそ求められる生き方だ。

「来年、四月四日にね、踊り念仏を本堂でやりますから、無料だし、またぜひいらしてください。車もそこの工場の駐車場に休みの日ならとめられますから」

どこまでも気さくなご住職に、佐久に根づくジェネレーターシップのミームを見た。

ちなみに、踊り念仏が伝わる「跡部」には「舞台」と名づけられた小字があると言う。

今日ともに歩いた仲間、いつも一緒にたくらんでいる仲間、これから出会うだろう仲間、そのうえ、今は亡き数々の先人の魂という仲間とともに身近な小さな「舞台」で、感じとった何かを「請負」うのを面白がる。わがルーツ探しは、まさに原点回帰の旅となった。